僕は美味しいものを食べるのが大好きだ。だから美食家や食通と称されるような人になりたいと思っていた。鋭敏な味覚が人に評価されることに憧れていた。でもなれなかった。例えば焼津の漁港で水揚げされたばかりの鰹を、例えば上海の有名な高級店で子持の蒸し蟹を、例えば伊勢佐木町の老舗でブランド牛のすき焼きを食べると、とても幸せな気持ちになる。そして残念なことに、マクドナルドでビッグマックを食べても、富士そばでコロッケそばを食べても、街の定食屋で生姜焼きを食べても、同じように幸せな気分になってしまう。要するに僕は美食家とはほど遠い、ただ食い意地が張っているだけの味音痴なのだ。なにを食べても美味しく感じるので、焼き加減がまずいだの下処理がなっていないだの、ことあるごとに眉間にしわを寄せる美食家よりも、ある意味では恵まれているのかもしれない。
味の善し悪しを語れるだけの舌を持ち合わせていない僕がいうのはおこがましいのだが、昨今の食についての風潮に一言——なんでもかんでも塩で食べさようというのは面白くない。ちょっと気取った薄暗がりの店で料理が供されるときに、店員さんが「素材そのものの風味を楽しんで頂きたいので、是非お塩だけでお召し上がりください。」なんてことをいう。出されるのは取り立てて騒ぐほどのことはない、揚げ物や焼いた肉だ。刺身や茹で野菜まで塩で食えと迫られることもある。もちろん塩だけで食べるのが最良の選択という場合はたくさんある。よく太った江戸前穴子の、皮の香ばしさを味わうなら白焼きが一番だし、真夏に熟れたトマトや瑞々しいきゅうりを、穫ったそばから塩を振ってかじりついたときの美味さといったらない。材料の質の高さや新鮮さは自慢になるだろうが、料理を出して金を取ろうという者が、それにべったり寄りかかってはいけない。いい食材に塩をかけて食うだけなら誰がやったって美味いのだから、わざわざその店で食べる必要がないじゃないか。僕は作り手が感性や経験を注いでこしらえた料理を味わいたい。
シチリアのパレルモにパスタ・コン・サルデという、鰯が主役の郷土料理がある。おろした鰯とウイキョウの葉、松の実、干しぶどうを合わせて煮込んだものに、ブカティーニやスパゲティなどの太いロングパスタを絡め、仕上げにオリーブ油で煎った香りパン粉をまぶす。これがとびっきり美味い。魚臭さはまったくなく、むしろ鰯とはこんなにいい香りのする魚だったのかと驚かされるのだ。爽やかさと野性味が同居したウイキョウ特有の苦みが鰯の風味を増幅し、松の実のコク、干しぶどうの酸味や甘みは鰯の旨味と解け合ってヴィヴィッドな味わいをもたらす。一般的な日本人の感覚からすれば、あまり馴染みのないウイキョウはさておき、鰯と松の実や干しぶどうを一緒に料理することには違和感があるだろう。だがこれが想像をこえた相性なのだ。鰯が嫌いな人、松の実や干しぶどうが苦手な人にこそ食べてもらいたい。絶対に美味しく食べられると保証する。初めて感じる奥深い風味に心酔するに違いない。組み合わせの妙でそれぞれの材料が持つ魅力を互いに際立たせるパスタ・コン・サルデは、料理の真骨頂といっていい。この料理に使われる鰯は日本でなら刺身にするような獲れたてのものだが、パレルモの料理人たちはそんなことを鼻に掛けない。鮮度の良さは当たり前、最低条件だからだ。彼らは材料の配分、煮込みの時間や火加減、麺を絡める間合いなどの調理方法を独自に追求していて、それにこそ誇りを感じている。自分の舌と腕が自慢なのだ。臆面もなく「素材のよさを感じるために味付けは塩だけでシンプルに…」などとうわごとを語る似非料理人は、一度パレルモにいってパスタ・コン・サルデを食べていらっしゃい。
20131206
20131202
The Movies with Tears
爆笑問題の太田光によれば「映画涙」なるものがあるという。「映画には中身に泣くんじゃなくて、映画涙ってのが別にあると。映画ファンが映画を観て映画ってすごいって思ったときに——ああ、こんな撮り方してるんだとか、あ、この演出すごいって思ったときに、涙が出てくる。それを映画涙っていうんですよ」と。登場人物に共感しドラマチックな盛り上がりに感情を揺さぶられて泣くのではなく、「これぞ映画だ」とうれしくなるような、映画でしか味わえない感動に出会ったときに流れる涙だ。
現代版カラーズともいうべき「エンド・オブ・ウォッチ」は、世界屈指の犯罪多発地域、ロサンゼルスのサウスセントラルを舞台にした、テイラーとサヴァラという制服警官二人組の物語だ。身につけたボディカメラやパトカーの車載カメラを通して、次々起きる事件の現場に急行し体を張って対応する彼らの姿を、断片的に、しかし圧倒的な躍動感とリアリティで映し出す。突発的な暴力や不可避な危機の応酬に、観る者は緊張の持続を強いられる。パトカーで巡回しながら二人が交わす馬鹿話や、休日に家族や恋人と過ごす穏やかな時間も描くことで、彼らの勤務の過酷さがことさらに際立っている。
現代版カラーズともいうべき「エンド・オブ・ウォッチ」は、世界屈指の犯罪多発地域、ロサンゼルスのサウスセントラルを舞台にした、テイラーとサヴァラという制服警官二人組の物語だ。身につけたボディカメラやパトカーの車載カメラを通して、次々起きる事件の現場に急行し体を張って対応する彼らの姿を、断片的に、しかし圧倒的な躍動感とリアリティで映し出す。突発的な暴力や不可避な危機の応酬に、観る者は緊張の持続を強いられる。パトカーで巡回しながら二人が交わす馬鹿話や、休日に家族や恋人と過ごす穏やかな時間も描くことで、彼らの勤務の過酷さがことさらに際立っている。
エンド・オブ・ウォッチということばは制服警官たちの符丁で、二通りの意味を持っているという。ひとつは「勤務時間終了」、もうひとつは「殉職」を意味するらしい。警官のコンビが主役の作品で題名が殉職とくれば、最後に警官が死ぬのは観なくてもわかる。問題は誰が死ぬかだ。これによって物語の性質は大きく変わる。死ぬ警官は順列組み合わせで4通り。つまり、テイラーが死ぬ、サヴァラが死ぬ、テイラーとサヴァラの両方死ぬ、二人以外の警官が死ぬ、のいずれかだ。
待っていた結末は、考えられる中で最も悲劇的だった。あまりに虚しく、末端の制服警官が背負うには重すぎる現実が突きつけられた。感情移入したキャラクターの死が悲しいんじゃない。サウスセントラルの抱える問題の大きさと、そこに立ち向かう制服警官の性を、これでもかというほど端的に表現した「警官の死」に震えた。そこにカタルシスはなかった。
ただのエイリアン映画に留まらず、差別問題を痛烈に風刺した社会派作品、というのが「第9地区」に対する世間の評価のようだ。見た目の醜さからエビと蔑称されるエイリアンの難民を特別居住区——第9地区に隔離し、下劣な彼らに自由を与えず抑圧するという設定が、舞台である南アフリカのアパルトヘイト政策を想起させるからだろう。だがこの作品が魅力的なのは、政治的な批判に富んでいるからではなく、もっと切実な人間の本質をえぐって、それを観る者に示しているからだと思う。
主人公のヴィカスは、それなりの正義感やほどほどの家族愛、ちょっとの出世欲を持ち合わせた、どこにでもいる男だ。基本的には善意の人である。第9地区はスラム化し治安が悪化ているため、新たな隔離場所へのエビの強制移送が決まり、その指揮をヴィカスが執ることになった。彼はこれを出世のチャンスと捉えて意欲的に取り組むのだが、エビたちに対する振る舞いが横柄この上なく、見ていてとても不快だ。彼に悪意はなく、むしろ人類のため、自身の所属する組織のため、愛する妻のためと、彼なりの善意に基づいて行動しているからたちが悪い。正しいことをしているという意識から、エビたちを躊躇なくさげすみ、いじめ、暴力を振うのだ。観客は次第にヴィカスを嫌悪するようになる。物語の中盤である出来事をきっかけに、ヴィカスは孤立して組織から追われる身になる。これまで意気揚々とエビたちをこき下ろしていたが一転し、彼自身が世間から差別される立場になってしまう。組織の追跡に怯え、家族や友人たちから見放されて悲嘆するヴィカス。惨めな彼を見ているうちに、観客は我に返る。無自覚な差別に嫌悪していた自分も、無意識に差別をしていた、と。観客は知らぬ間にヴィカスをさげすんでいたのだ。
差別を題材にした映画は星の数ほどあるが、そのほとんどは差別される者に焦点を当てて描き、同情や嘆きの涙を誘う。一方で「第9地区」は差別する側の意識に迫る。差別は常に無自覚だ。だから差別は残酷なのだ。観客に差別をする過程を疑似体験させ、内省を促すシステムとして、この作品は機能している。それに気づいたときに涙が出た。
例えば「ユージュアル・サスペクツ」のように、練りに練ったストーリーテリングで観客を翻弄するような作品も悪くはない。でもどちらかというと、小難しい筋書きがなく気楽に観れる作品の方が好きだ。「ワイルド・スピード」シリーズはその最たるものだと思う。どの作品のどの場面を見ても、派手に改造されたスポーツカーが派手に走り回り、派手に転がり、派手に爆発する。金太郎飴のようなマンネリの物語はしかし、気負わずに観れていつでも楽しめるという安心感があるのだ。寅さんシリーズや水戸黄門のように、延々と同じような作品を作り続けてほしいと願う。「The Fast and The Furious」というすばらしい原題を、田舎臭く書き換えた日本の配給会社に当初は怒りを覚えたが、いまとなっては慣れたし愛着さえ感じるようになった。
シリーズ第1作の冒頭、ドラッグレースの描写は「ワイルド・スピード」を象徴するシーンだ。1/4マイルの直線で速さを競うストリートレース。4台のチューンドカーが横並びになり、よーいドンのかけ声で一斉に走り出す。カメラはヴィン・ディーゼルのシフトノブからトランスミッションに入り、ロータリーエンジンのシリンダー内を通るとターボのタービンを抜けて、炎とともにマフラーから出る。4台の車は徐々に差が開きポール・ウォーカーが最後尾だ。アクセル全開で食らいつくが追いつかない。ウォーカーがNOSのスイッチを押すとシリンダーにニトロガスが噴射され、爆発的な加速に背景がグニャリと歪む。あっという間に先頭のディーゼルに追いつき、もう一度NOSを加給する。過剰な出力に耐えきれず、床板が火花を散らしながら飛んでいったが、トップに躍り出ることができた。だが次の瞬間、ディーゼルもNOSを使用して猛烈に加速、ゴールの直前に抜き返されてしまう。スタートからゴールまで実際には10秒あまりで決着するレースが、2分以上かけて描かれている。初めて見たときにはあまりに長いので思わず笑ってしまった。
この2分間がシリーズの骨格になる信念を築いた。細かいことはどうでもいい、理屈なんて問題じゃない、とにかく車がかっこよく走る姿を表現するんだ。以来「ワイルド・スピード」は観る者の度肝を抜く、馬鹿馬鹿しいほどに魅力的な車の映像を描き続けている。
きのうの夕方、たまたまこのドラッグレースの場面をユーチューブで観ていたときに、友だちからメールがきた。ポール・ウォーカー氏の訃報について書かれていた。ご冥福をお祈りします。
待っていた結末は、考えられる中で最も悲劇的だった。あまりに虚しく、末端の制服警官が背負うには重すぎる現実が突きつけられた。感情移入したキャラクターの死が悲しいんじゃない。サウスセントラルの抱える問題の大きさと、そこに立ち向かう制服警官の性を、これでもかというほど端的に表現した「警官の死」に震えた。そこにカタルシスはなかった。
ただのエイリアン映画に留まらず、差別問題を痛烈に風刺した社会派作品、というのが「第9地区」に対する世間の評価のようだ。見た目の醜さからエビと蔑称されるエイリアンの難民を特別居住区——第9地区に隔離し、下劣な彼らに自由を与えず抑圧するという設定が、舞台である南アフリカのアパルトヘイト政策を想起させるからだろう。だがこの作品が魅力的なのは、政治的な批判に富んでいるからではなく、もっと切実な人間の本質をえぐって、それを観る者に示しているからだと思う。
主人公のヴィカスは、それなりの正義感やほどほどの家族愛、ちょっとの出世欲を持ち合わせた、どこにでもいる男だ。基本的には善意の人である。第9地区はスラム化し治安が悪化ているため、新たな隔離場所へのエビの強制移送が決まり、その指揮をヴィカスが執ることになった。彼はこれを出世のチャンスと捉えて意欲的に取り組むのだが、エビたちに対する振る舞いが横柄この上なく、見ていてとても不快だ。彼に悪意はなく、むしろ人類のため、自身の所属する組織のため、愛する妻のためと、彼なりの善意に基づいて行動しているからたちが悪い。正しいことをしているという意識から、エビたちを躊躇なくさげすみ、いじめ、暴力を振うのだ。観客は次第にヴィカスを嫌悪するようになる。物語の中盤である出来事をきっかけに、ヴィカスは孤立して組織から追われる身になる。これまで意気揚々とエビたちをこき下ろしていたが一転し、彼自身が世間から差別される立場になってしまう。組織の追跡に怯え、家族や友人たちから見放されて悲嘆するヴィカス。惨めな彼を見ているうちに、観客は我に返る。無自覚な差別に嫌悪していた自分も、無意識に差別をしていた、と。観客は知らぬ間にヴィカスをさげすんでいたのだ。
差別を題材にした映画は星の数ほどあるが、そのほとんどは差別される者に焦点を当てて描き、同情や嘆きの涙を誘う。一方で「第9地区」は差別する側の意識に迫る。差別は常に無自覚だ。だから差別は残酷なのだ。観客に差別をする過程を疑似体験させ、内省を促すシステムとして、この作品は機能している。それに気づいたときに涙が出た。
例えば「ユージュアル・サスペクツ」のように、練りに練ったストーリーテリングで観客を翻弄するような作品も悪くはない。でもどちらかというと、小難しい筋書きがなく気楽に観れる作品の方が好きだ。「ワイルド・スピード」シリーズはその最たるものだと思う。どの作品のどの場面を見ても、派手に改造されたスポーツカーが派手に走り回り、派手に転がり、派手に爆発する。金太郎飴のようなマンネリの物語はしかし、気負わずに観れていつでも楽しめるという安心感があるのだ。寅さんシリーズや水戸黄門のように、延々と同じような作品を作り続けてほしいと願う。「The Fast and The Furious」というすばらしい原題を、田舎臭く書き換えた日本の配給会社に当初は怒りを覚えたが、いまとなっては慣れたし愛着さえ感じるようになった。
シリーズ第1作の冒頭、ドラッグレースの描写は「ワイルド・スピード」を象徴するシーンだ。1/4マイルの直線で速さを競うストリートレース。4台のチューンドカーが横並びになり、よーいドンのかけ声で一斉に走り出す。カメラはヴィン・ディーゼルのシフトノブからトランスミッションに入り、ロータリーエンジンのシリンダー内を通るとターボのタービンを抜けて、炎とともにマフラーから出る。4台の車は徐々に差が開きポール・ウォーカーが最後尾だ。アクセル全開で食らいつくが追いつかない。ウォーカーがNOSのスイッチを押すとシリンダーにニトロガスが噴射され、爆発的な加速に背景がグニャリと歪む。あっという間に先頭のディーゼルに追いつき、もう一度NOSを加給する。過剰な出力に耐えきれず、床板が火花を散らしながら飛んでいったが、トップに躍り出ることができた。だが次の瞬間、ディーゼルもNOSを使用して猛烈に加速、ゴールの直前に抜き返されてしまう。スタートからゴールまで実際には10秒あまりで決着するレースが、2分以上かけて描かれている。初めて見たときにはあまりに長いので思わず笑ってしまった。
この2分間がシリーズの骨格になる信念を築いた。細かいことはどうでもいい、理屈なんて問題じゃない、とにかく車がかっこよく走る姿を表現するんだ。以来「ワイルド・スピード」は観る者の度肝を抜く、馬鹿馬鹿しいほどに魅力的な車の映像を描き続けている。
きのうの夕方、たまたまこのドラッグレースの場面をユーチューブで観ていたときに、友だちからメールがきた。ポール・ウォーカー氏の訃報について書かれていた。ご冥福をお祈りします。
Subscribe to:
Posts (Atom)