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20140916
20140911
Sambar Sound System
音楽は大音量で聴きたい。僕には楽器を演奏した経験がないし、耳がいいわけでもない。ついでに音痴だ。だから音質にはこだわらない。いや、音の善し悪しを判別できないといったほうが正しいか。ただひとつ、大きな音を聴くことができさえすれば、それでいい。少し前までは大音量を求めてちょくちょくクラブやライヴハウスにいったのだけれど、最近は歳のせいか億劫で足が遠のいている。出向くのは贔屓のミュージシャンやDJが来沖するときくらい、年に数えるほどになってしまった。いまの家に住みはじめた当初は、お隣さんもお向かいさんもいなかったから、自宅で昼夜問わずボリュームいっぱいにできた。いまは隣人がいるので難しい。僕のシンプルな欲求はなかなか満たされない。
1967年式、今年47歳の愛車が仮死状態になって移動の足がなくなった。しばらくの間、車なしの生活を試してみたが、やっぱり沖縄で生きるためには車が必須だ。車がないとどこにもいけない、なにもできない。仕方なしにセカンドカーを買うことにした。質実剛健で色気のない軽貨物車。エンジンがよく回るし軽量なので走りは申し分なく、足としての役割りをしっかり果たしてくれる。
契約のときに車屋のおじさんが「オーディオはこのままでいいか?機材を持ってくれば整備のついでに繋いであげるよ。」といった。インストルメントパネルには、スピーカーと一体型のAMラジオがちょこんとすえられているだけだった。あってもなくてもいいような代物だ。おおいに不満ではあったけれど車体価格が予算をオーバーしていたので、オーディオのことは追い追い考えようと思っていた。でもタダでやってもらえるなら逃す手はない。当面は仮死状態を維持するはずの愛車から、ヘッドユニットとサブウーファーを引き剥がして、載せてもらうようにお願いした。サイズの合ったミッドレンジスピーカーは手持ちがない。おじさんに相談すると「適当な中古のを見つけて付けておこうね。」との返答。どこまで人がいいのだろう。配線からドアパネルの穴あけ加工、取り付けまでを全部サービスでやってくれた。高出力のオーディオではないけれど、車内は狭いのでそれなりの音量を感じられ、アイポッドをつないで好きな曲をかけられる。セカンドカーでのドライブが休日の楽しみになった。
インターネット上でケンウッドのミッドレンジが叩き売りされているのを見かけた。いまの音響にさほど不満はなかったが、気まぐれで即購入。車屋さんがタダでくれた、どこの馬の骨ともわからぬスピーカーと付け替えて腰を抜かした。音がまるで違う。音についての知識や語彙がないので、どう言葉にすればいいのかわからないのが歯がゆい。
とにかく全然違うのだ。とりわけ高音は天と地ほど差がある。いままでキンキンと耳障りだった音が透き通り、爽やかになった。高音以外も格段によくなった。きめ細やかではっきりとした音だ。そして矛盾するような表現だけれど、小さい音でもよく聞こえるようになった。もちろん大きな音にしても美しい。ボリュームをどこまであげてもまったく割れない。これまではサブウーファーから聞こえる低音が浮いてしまい、ちぐはぐな印象だったのに対して、低音と中高音が馴染んで生々しい音に変わった。だから臨場感がすばらしい。さすがに巨大アリーナでのライブとまではいかない。でも練習スタジオで生演奏を聴いているときくらいのリアリティはある。瑞々しく艶やかな音楽を、胃のあたりが気持ち悪くなるほどの音圧で聴けるのだ。軽貨物車がプライベートな音楽鑑賞室に変わった。
一度いい音を味わったら、にわかに欲が出てきた。もっといい音をもっと大きな音で聴いてみたい。外部アンプを介したら、音がさらにパワフルになるんじゃないか。スピーカーの数を増やしてバランスよく配置したら、臨場感がさらに増すんじゃないか。エンジン音やロードノイズ、風切り音を遮断したら、体がしびれるくらいの音圧を得られるんじゃないか。最近は暇さえあればカーオーディオの構成を勉強している。
1967年式、今年47歳の愛車が仮死状態になって移動の足がなくなった。しばらくの間、車なしの生活を試してみたが、やっぱり沖縄で生きるためには車が必須だ。車がないとどこにもいけない、なにもできない。仕方なしにセカンドカーを買うことにした。質実剛健で色気のない軽貨物車。エンジンがよく回るし軽量なので走りは申し分なく、足としての役割りをしっかり果たしてくれる。
契約のときに車屋のおじさんが「オーディオはこのままでいいか?機材を持ってくれば整備のついでに繋いであげるよ。」といった。インストルメントパネルには、スピーカーと一体型のAMラジオがちょこんとすえられているだけだった。あってもなくてもいいような代物だ。おおいに不満ではあったけれど車体価格が予算をオーバーしていたので、オーディオのことは追い追い考えようと思っていた。でもタダでやってもらえるなら逃す手はない。当面は仮死状態を維持するはずの愛車から、ヘッドユニットとサブウーファーを引き剥がして、載せてもらうようにお願いした。サイズの合ったミッドレンジスピーカーは手持ちがない。おじさんに相談すると「適当な中古のを見つけて付けておこうね。」との返答。どこまで人がいいのだろう。配線からドアパネルの穴あけ加工、取り付けまでを全部サービスでやってくれた。高出力のオーディオではないけれど、車内は狭いのでそれなりの音量を感じられ、アイポッドをつないで好きな曲をかけられる。セカンドカーでのドライブが休日の楽しみになった。
インターネット上でケンウッドのミッドレンジが叩き売りされているのを見かけた。いまの音響にさほど不満はなかったが、気まぐれで即購入。車屋さんがタダでくれた、どこの馬の骨ともわからぬスピーカーと付け替えて腰を抜かした。音がまるで違う。音についての知識や語彙がないので、どう言葉にすればいいのかわからないのが歯がゆい。
とにかく全然違うのだ。とりわけ高音は天と地ほど差がある。いままでキンキンと耳障りだった音が透き通り、爽やかになった。高音以外も格段によくなった。きめ細やかではっきりとした音だ。そして矛盾するような表現だけれど、小さい音でもよく聞こえるようになった。もちろん大きな音にしても美しい。ボリュームをどこまであげてもまったく割れない。これまではサブウーファーから聞こえる低音が浮いてしまい、ちぐはぐな印象だったのに対して、低音と中高音が馴染んで生々しい音に変わった。だから臨場感がすばらしい。さすがに巨大アリーナでのライブとまではいかない。でも練習スタジオで生演奏を聴いているときくらいのリアリティはある。瑞々しく艶やかな音楽を、胃のあたりが気持ち悪くなるほどの音圧で聴けるのだ。軽貨物車がプライベートな音楽鑑賞室に変わった。
一度いい音を味わったら、にわかに欲が出てきた。もっといい音をもっと大きな音で聴いてみたい。外部アンプを介したら、音がさらにパワフルになるんじゃないか。スピーカーの数を増やしてバランスよく配置したら、臨場感がさらに増すんじゃないか。エンジン音やロードノイズ、風切り音を遮断したら、体がしびれるくらいの音圧を得られるんじゃないか。最近は暇さえあればカーオーディオの構成を勉強している。
20140904
A Life of His Son
むかしむかし、あるところにアリの女王さまがいました。女王さまはとても頭がよく、とてもやさしくて思いやりがあるので、働きアリのみんなに愛されていました。みんなは大好きな女王さまのいいつけをよく守り、まじめに一所懸命仕事をしました。だからアリの国は、どんどん豊かになっていきました。女王さまはみんなの仕事ぶりと国の繁栄を誇りに思い、たいへん満足していました。でも女王さまには、ひとつだけ気になっていることがありました。
去年の大晦日のこと、宮廷で盛大なパーティがありました。女王さまが毎年大晦日に、働きアリのみんなを招いて日々の仕事ぶりをねぎらい、たくさんのおいしいご馳走を振る舞うのです。みんなにとってはこの日が一番の楽しみでした。おおいに食べ、おおいに笑い、年に一度のパーティはたいへんにぎやかです。みんなの笑顔を見て女王さまもいい気持ちです。
去年の大晦日のこと、宮廷で盛大なパーティがありました。女王さまが毎年大晦日に、働きアリのみんなを招いて日々の仕事ぶりをねぎらい、たくさんのおいしいご馳走を振る舞うのです。みんなにとってはこの日が一番の楽しみでした。おおいに食べ、おおいに笑い、年に一度のパーティはたいへんにぎやかです。みんなの笑顔を見て女王さまもいい気持ちです。
夜が更けそろそろ御開きというころに、執事アリさんがやってきて女王さまに話しかけました。
「失礼いたします、女王さま。キリギリス氏が参っておりまして、ぜひ女王さまのお目にかかりたいと申しているようです。しかしながら、今宵は年に一度の宴でございます。出直させようと存じますが、いかがいたしましょう。」
女王さまはこういいました。
「通しなさい。寒い中やってきたのに、追い返しては気の毒です。」
しばらくすると、やつれていまにも倒れそうなキリギリスさんが、門番の働きアリさんに支えられながらやってきました。キリギリスさんは玉座の前にひざまずいていいました。
「女王さま。お腹が減ってたまりません。どうぞ食べ物を恵んでください。」
宮廷は静まりました。働きアリたちはみな苦い顔をしています。
女王さまは、キリギリスさんの陳情にどう応えるのが一番いいか、悩みました。女王さまは、キリギリスさんが夏の間に働かず、ヴァイオリンを弾いたり歌ったりして遊んでいたのを知っています。そして働きアリのみんなが、そのことをよく思っていなかったのも知っています。食料庫には食べ物が十分にあるので、キリギリスさんに分けてやるのはたやすいこと。女王さまがいいつければ、執事アリさんが指揮をとり、みんなが手分けをしてキリギリスさんのために食事を支度し、寝床を整え、身の回りの世話をするでしょう。キリギリスさんのみじめな姿を見るとかわいそうで、いますぐに命じたいとも思います。でもそうしてしまったら、みんなは納得しないはずです。彼らは暑いさなか、不平をいわずにせっせと働きました。仕事をしないキリギリスさんが食べ物をもらえるとなれば、女王さまのいいつけ通りまじめに仕事をするのが馬鹿馬鹿しい、と考える者もいるかもしれません。
キリギリスさんはすがるような目で女王さまを見ています。働きアリのみんなも、女王さまがどう応えるのか、不安そうに見つめています。女王さまは決めました。国が栄えたのは、ひとえにまじめに働く国民のおかげです。彼らの気持ちを一番大切にしたいし、彼らの士気を損なうようなことはしたくない。女王さまはキリギリスさんにいいました。
「私たちには食べ物があります。それは夏の間懸命に集めたものです。働いたから食べられるのです。ところでキリギリス、あなたは夏に働かず歌っていましたね。働いていない者が食べられないのは、仕方がないことです。」
働きアリたちはみなうなずいています。キリギリスさんは抱えられ連れていかれました。
それからほどなくしてキリギリスさんは息を引き取った、と執事アリさんから聞きました。あのときの決断は果たして正しかったのか、間違っていたとしたらどうすればよかったのか、女王さまはいつも考えていました。何百という国民を抱える君主としては、あの裁定でよかったと胸を張れます。ただ、道義的にどうだったのかと問われれば、間違いだったといわざるを得ないのです。彼の命を救ってやりたかった。女王さまの後悔は、日増しに大きくなっていました。
ある日、女王さまは働きアリのみんながうわさ話をしているのを耳にしました。
「キリギリス君は今日も遊んでやがったな。」
「やっこさん、あのキリギリスさんのせがれらしいぜ。ほら、去年の大晦日にきていた。」
「ああ、キリギリスさんとこの子か、いわれてみればよく似てらあ。野郎が働かねえのも無理はねぇ、性根も親父に似ているはずさ。」
「そうそう、きっとろくなもんじゃねえや。」
キリギリス君はヴァイオリンを弾くのと歌うのが大好きです。ほかにはなにもいりません。毎日音楽に興じて楽しく暮らしていました。その日も木陰でヴァイオリンを弾いていました。すると執事アリさんがやってきて声をかけました。
「ごきげんようキリギリス君。私は女王さまの使いの者だ。女王さまから、君を宮廷に招くよう仰せつかった。ついては一緒にきてもらいたい。よいかな?」
キリギリス君は困ってしまいました。働きアリのみんなは、いつもキリギリス君に向かって悪口をいい、はやし立ててからかいます。だからキリギリス君は、彼らのことが苦手でした。できれば関わりたくないと思っています。でも女王さま直々の命とあっては、断るわけにはいきません。一体なんの用だろう、キリギリス君は不安に思いながら、執事アリさんについていきました。
「失礼いたします、女王さま。キリギリス氏が参っておりまして、ぜひ女王さまのお目にかかりたいと申しているようです。しかしながら、今宵は年に一度の宴でございます。出直させようと存じますが、いかがいたしましょう。」
女王さまはこういいました。
「通しなさい。寒い中やってきたのに、追い返しては気の毒です。」
しばらくすると、やつれていまにも倒れそうなキリギリスさんが、門番の働きアリさんに支えられながらやってきました。キリギリスさんは玉座の前にひざまずいていいました。
「女王さま。お腹が減ってたまりません。どうぞ食べ物を恵んでください。」
宮廷は静まりました。働きアリたちはみな苦い顔をしています。
女王さまは、キリギリスさんの陳情にどう応えるのが一番いいか、悩みました。女王さまは、キリギリスさんが夏の間に働かず、ヴァイオリンを弾いたり歌ったりして遊んでいたのを知っています。そして働きアリのみんなが、そのことをよく思っていなかったのも知っています。食料庫には食べ物が十分にあるので、キリギリスさんに分けてやるのはたやすいこと。女王さまがいいつければ、執事アリさんが指揮をとり、みんなが手分けをしてキリギリスさんのために食事を支度し、寝床を整え、身の回りの世話をするでしょう。キリギリスさんのみじめな姿を見るとかわいそうで、いますぐに命じたいとも思います。でもそうしてしまったら、みんなは納得しないはずです。彼らは暑いさなか、不平をいわずにせっせと働きました。仕事をしないキリギリスさんが食べ物をもらえるとなれば、女王さまのいいつけ通りまじめに仕事をするのが馬鹿馬鹿しい、と考える者もいるかもしれません。
キリギリスさんはすがるような目で女王さまを見ています。働きアリのみんなも、女王さまがどう応えるのか、不安そうに見つめています。女王さまは決めました。国が栄えたのは、ひとえにまじめに働く国民のおかげです。彼らの気持ちを一番大切にしたいし、彼らの士気を損なうようなことはしたくない。女王さまはキリギリスさんにいいました。
「私たちには食べ物があります。それは夏の間懸命に集めたものです。働いたから食べられるのです。ところでキリギリス、あなたは夏に働かず歌っていましたね。働いていない者が食べられないのは、仕方がないことです。」
働きアリたちはみなうなずいています。キリギリスさんは抱えられ連れていかれました。
それからほどなくしてキリギリスさんは息を引き取った、と執事アリさんから聞きました。あのときの決断は果たして正しかったのか、間違っていたとしたらどうすればよかったのか、女王さまはいつも考えていました。何百という国民を抱える君主としては、あの裁定でよかったと胸を張れます。ただ、道義的にどうだったのかと問われれば、間違いだったといわざるを得ないのです。彼の命を救ってやりたかった。女王さまの後悔は、日増しに大きくなっていました。
ある日、女王さまは働きアリのみんながうわさ話をしているのを耳にしました。
「キリギリス君は今日も遊んでやがったな。」
「やっこさん、あのキリギリスさんのせがれらしいぜ。ほら、去年の大晦日にきていた。」
「ああ、キリギリスさんとこの子か、いわれてみればよく似てらあ。野郎が働かねえのも無理はねぇ、性根も親父に似ているはずさ。」
「そうそう、きっとろくなもんじゃねえや。」
キリギリス君はヴァイオリンを弾くのと歌うのが大好きです。ほかにはなにもいりません。毎日音楽に興じて楽しく暮らしていました。その日も木陰でヴァイオリンを弾いていました。すると執事アリさんがやってきて声をかけました。
「ごきげんようキリギリス君。私は女王さまの使いの者だ。女王さまから、君を宮廷に招くよう仰せつかった。ついては一緒にきてもらいたい。よいかな?」
キリギリス君は困ってしまいました。働きアリのみんなは、いつもキリギリス君に向かって悪口をいい、はやし立ててからかいます。だからキリギリス君は、彼らのことが苦手でした。できれば関わりたくないと思っています。でも女王さま直々の命とあっては、断るわけにはいきません。一体なんの用だろう、キリギリス君は不安に思いながら、執事アリさんについていきました。
「お招きいただき光栄でございます。」
キリギリス君は女王さまの前で最敬礼をしました。女王さまはキリギリス君が緊張しているのを見てとり、優しく声をかけました。
「楽になさい、キリギリス。きょうはあなたに話したいことがあってきてもらいました。」
キリギリス君がうなずくと女王さまは続けました。
「私はあなたの父上を知っています。早くに亡くなりました。あなたが生まれる前のことです。父上は音楽の才能に溢れていましたが、働くことが好きではなかったようです。それが元で長生きできませんでした。夏に働かなかったために食べ物が尽き、冬を越せなかったのです。」
キリギリス君は会ったことのない父の話を、涙を流しながら聞いていました。
「あなたは父上とよく似ています。見れば見るほど瓜二つです。きっと音楽の才能は父上譲りのもの、父上は天国であなたを誇りに思っていることでしょう。」
キリギリス君は涙が止まりません。女王さまの話を聞いていると、父の姿が浮かび上がってくるようです。とても温かい気持ちになりました。
「でもね、キリギリス。わたしはあなたに父上と同じ道を歩ませたくはないと思っています。あなたにみじめな思いはさせたくありません。だから夏に働いて食べ物をしっかり蓄え、冬に備えて欲しいのです。」
キリギリス君はどう応えればいいのかわからず、黙っていました。女王さまは話の本題を語りはじめました。
「 あなたは父上と一緒で、働くことを好まないと聞いています。このままではいけません。しかしつらい労働を続けることは、決して容易ではありません。強い信念がなければ、やりとげることはできないでしょう。さてキリギリス、わたしのもとで働いてみませんか。仲間がいれば困難を乗り越えられるはずです。あなたが夏の間に働きアリのみなとしっかり務めたならば、わたしが冬の生活を保証しましょう。つまり、もしあなたが望むなら、わたしたちはあなたを国民として迎え入れる心づもりでいる、ということです。」
女王さまは去年の悲劇を再び見たくはありません。でもキリギリス君にただ食べ物を分け与えてたら、働きアリのみんなが黙っていないでしょう。だから彼らが納得できる形で、飢えから守る必要がありました。そのためにはキリギリス君自身が働くのが一番です。そうすれば冬を越せるはず。これがうまくいけば、キリギリスさんへの罪滅ぼしにもなる。女王さまはそう考えたのです。キリギリス君は相変わらず黙ったままでした。
「いますぐ返事をする必要はありません。あなたの今後を左右する大きな選択です。帰ってゆっくりお考えなさい。何日かあとにまた使いを遣ります。そのときにあなたの考えを聞かせてもらいましょう。」
父さん、僕はどうしたらいいのかわからないよ。いっぺんにいろいろなことがあってキリギリス君の心は乱れていました。その晩はめそめそと泣くばかりで答えを出せず、疲れ果てていつの間にか寝入ってしまいました。次の日の朝、目覚めると気持ちは少し落ち着いていました。冷静になって考えられそうです。キリギリス君は、女王さまのもとで働く場合と断った場合の、それぞれの見通しについて、じっくり吟味することにしました。
まずは働く場合。冬の生活が保証されるというのが一番の魅力です。まさか冬にひもじい思いをするなんて、考えもしませんでした。けれど、それがもとで父が早くに死んだのだ、と知らされた以上は無視できません。女王さまのもとで働いていれば安心です。でも歌ったり踊ったり、好きなときに好きなことができなくなりそうです。いままでの自由な生活はあきらめなければならないでしょう。そして働きアリのみんなと一緒に仕事をしなければいけないのも気にかかります。キリギリス君は彼らが苦手です。仲良くなれる気がしません。いじめられてしまうかもしれません。好きなことを我慢して、働きアリのみんなとの集団生活を我慢しなければいけないようです。
一方で断った場合。一番の利点は、いままで通りに好きなことをして、毎日楽しく過ごせることです。なにも女王さまのところでお世話にならなくても、その気になれば自分一匹で冬に備えることだってできます。でも女王さまは「強い信念がなければやりとげることはできない」といっていました。そう考えるとなんだか自信が持てません。キリギリス君はいままでに、ことを成しとげたという経験がないのです。もしできなければ、父と同じようにみじめな最期を迎えることになります。そしてもし女王さまの話を断ったと知れたら、働きアリのみんなはキリギリス君につらくあたるような気がします。草むらで会ったときに、いじめられてしまうかもしれません。
どちらの選択をしても、良いことと悪いことがあるようです。そしていずれにしても、働きアリのみんなとの関わりは足枷になりそうです。父さんならどっちを選ぶの?決めかねたキリギリス君は、そう考えるようになりました。天国の父にアドバイスを求めました。必死に父の気持ちを想像しました。
数日後、執事アリさんが再びやってきたとき、キリギリス君の覚悟はもう決まっていました。すっきりとした表情です。身支度をして執事アリさんと宮廷に向かいました。
「ごきげんようキリギリス、気持ちは定まりましたか?」
女王さまの問いかけに、キリギリス君は深々頭を下げて応えました。
「はい、女王さま。どうぞ僕に働かせてください。精一杯がんばります。」
「そうですか、よく決心してくれましたね。あなたは正しい選択をしました。わたしはあなたを国民として迎えることができて、たいへんうれしく思います。」
キリギリス君はほっとして、女王さまに微笑みました。飢えに苦しんだ父でも、同じ決断をしただろうと思いました。働きアリのみんなとのことに不安はあるけれど、それはどちらの道に進んでもついてくる問題です。ならば自分の気持ちに正直になろうと考えて、決意しました。
「それでは…」
女王さまが続けます。
「あなたのヴァイオリンを預かりましょう。」
キリギリス君は狐につままれたような顔をして言葉が出ません。ヴァイオリンはキリギリス君にとってなによりも大事な宝物です。
「キリギリス、安心なさい。なにもあなたから一生ヴァイオリンを取り上げようというのではありません。あなたがそれを大切にしているのはよく知っています。でもねキリギリス、誘惑があると仕事に身が入らないものです。仕事が忙しい時期は、それをわたしに預けなさい。わたしがしっかり管理をして、冬になったら返しましょう。そうそう、冬にあなたの演奏会を開くというのはいかがかしら?きっとみなも喜ぶでしょう。」
キリギリス君はなんだか騙されたみたいで腑に落ちません。この間呼ばれたときに女王さまは、ヴァイオリンのことなんて一言もいっていなかったからです。でも少し考えてから、素直にヴァイオリンを差し出しました。女王さまは自分のことを大事に思ってくれています。だから女王さまの気持ちに応えたいのです。それに乗りかかった船、やると決めた以上いまさらごねるのはよくないと思ったのです。
翌日執事アリさんに外回りを命じられ、キリギリス君は働き始めました。草むらをくまなく歩いて、食べ物を探します。食べ物を見つけたら合図をして仲間を呼び、みんなで力を合わせて巣まで運ぶのです。また仲間の合図を受けたらそこに駆けつけ、同じように運びます。体力のいるとてもたいへんな仕事でした。
運ぶ物は多種多様です。昆虫の死骸、腐って木から落ちた果実、脱皮したトカゲの皮、花の蜜や樹液、人間のこどもが落としたキャンディやキャラメルなど。ほとんどがキリギリス君の体よりも大きなものでした。持ち上げるたびあっちへヨタヨタ、こっちへフラフラ。それも無理はありません。キリギリス君の脚は長くて筋肉も立派。天高くジャンプするときの瞬発力は抜群です。でも重たいものを運ぶのには向いていないのです。一方働きアリのみんなは小柄だけどとても力持ち。強い足腰で食べ物を軽々と持ち上げて、どんどん運んでいます。キリギリス君はいつも叱られ、からかわれました。
「やいウラナリ!ちんたらしてちゃ仕事の邪魔だ、どきやがれ!」
「ヒョロ緑!そんなのも運べねえようじゃ、晩飯はやらねえぞ!」
「このウスノロ!そんなとこでボサっと突っ立ってたら危ねえじゃねえか馬鹿野郎!」
不名誉なあだ名をたくさん付けられ、毎日乱暴なことばで怒鳴られます。怖くて悔しくて、みんなと仕事をするのが嫌で嫌でたまりませんでした。気分が落ち込んでいました。こんなときにヴァイオリンを弾けば少しは気が晴れたでしょうが、いまのキリギリス君にはそれができません。
ある日の休憩中、キリギリス君は朝露に濡れて柔らかくなった葉っぱの芽を見つけてかぶりつきました。キリギリス君の大好物です。いつも運んでいる食べ物は、みんなにとってご馳走かもしれません。でもキリギリス君の口には合わずうんざりしていました。久しぶりに食べる新鮮な葉っぱの味は格別で、夢中で食べました。それを見ていた働きアリさんがいいました。
「よおデクノボウ、そんな気取ったもんを食ったって力がへぇらねえぞ。だからだめなんだよてめえは。ほれ、これを食え!」
彼が投げてよこしたのはタガメの内蔵と樹液を練って丸めた団子でした。こんなもの食べられないよ。キリギリス君は吐き気をもよおしました。そして同時に大切なことに気づきました。働きアリのみんなはことばが乱暴だし気性も荒い。すぐに手が出て喧嘩っ早い。でも本当はやさしくて仲間思いなのです。キリギリス君のことを思っているからこそタガメ団子をくれたのです。
思い返せば、これまで毎日みんなに叱られ続けてきました。でも嫌がらせやいじめを受けたことは一度もありません。それどころか仕事のイロハをしっかり教えてもらいました。怒鳴られ、小突かれ、おしりを蹴られながらではあったけれど。女王さまのもとにくる前、キリギリス君は働きアリのみんなのことが苦手でした。働きはじめてからはみんなのことが嫌いでした。いまは違います。愛されているとわかったからです。キリギリス君はうれしくなりました。みんなのために早く一人前になりたいと思いました。
「キリギリスの様子はどうですか?みなとうまくやっていますか?」
「へえ、女王さま。うちにきた時分はずいぶんふさぎ込んでやがって、辛気臭せえ野郎だなんてことをいってたんですがね。近ごろは明るくなりましたよ。ほかの奴らとも仲良くやってまさぁ。ただね…」
「ただ?」
「ええ、よくがんばってはいるんですがね。なかなか力がつかねえ、どうにも要領を得ねえ。もっとも奴にしてみりゃ、もとの生活とはてんで違うことをやってるんで。あっしはゆっくり仕事を覚えりゃいいじゃねえかと、そういって聞かせてるんですがね。あの野郎、ああ見えて案外生真面目なところがありまして、腕が上がらねえってんで焦ってやがるんすよ。」
「そうですか。あまり無理はさせないようにしなければなりませんね。あの子が仕事を続けられることが一番大切なのですから。」
あるとき仲間が大きな大きなキャンディを見つけました。年に一度あるかどうかという大漁です。みんなは沸き立ちました。キリギリス君も張り切って加勢しました。かけ声を合図に、みんなでキャンディを持ち上げようとしたときのことです。キリギリス君がふんばった瞬間に自慢の後脚がバネのようにバチンと弾け、その拍子にキャンディを蹴飛ばしてしまいました。キャンディは勢いよく転がり、向こうにいた一匹の働きアリさんを押し倒しました。すぐにみんなで持ち上げて助け出そうとしたのですが、下敷きになった働きアリさんの体は、太陽に照らされベトベトになったキャンディにくっついて剥がれません。どうにか引き剥がしたときには脚3本と左の触角がちぎれていました。それ以来彼はまっすぐ歩けず、時計回りにクルクルすることしかできなくなってしまいました。
僕のせいで仲間が怪我をしてしまった。キリギリス君は自責の念に駆られてひどく落ち込みました。
「おめえが気にするこたぁねえよ、奴がぼんやりしてたのがよくねえやな。」
「あのくらいのことはよくあるじゃねえか、いちいち気に病んでちゃ仕事にならねえよ。もう忘れちまいな。」
「やっこさんはてめえを恨んじゃいねえよ。なのにてめえがウジウジしてたんじゃどうにもならねえじゃねえか。」
「 あなたは父上と一緒で、働くことを好まないと聞いています。このままではいけません。しかしつらい労働を続けることは、決して容易ではありません。強い信念がなければ、やりとげることはできないでしょう。さてキリギリス、わたしのもとで働いてみませんか。仲間がいれば困難を乗り越えられるはずです。あなたが夏の間に働きアリのみなとしっかり務めたならば、わたしが冬の生活を保証しましょう。つまり、もしあなたが望むなら、わたしたちはあなたを国民として迎え入れる心づもりでいる、ということです。」
女王さまは去年の悲劇を再び見たくはありません。でもキリギリス君にただ食べ物を分け与えてたら、働きアリのみんなが黙っていないでしょう。だから彼らが納得できる形で、飢えから守る必要がありました。そのためにはキリギリス君自身が働くのが一番です。そうすれば冬を越せるはず。これがうまくいけば、キリギリスさんへの罪滅ぼしにもなる。女王さまはそう考えたのです。キリギリス君は相変わらず黙ったままでした。
「いますぐ返事をする必要はありません。あなたの今後を左右する大きな選択です。帰ってゆっくりお考えなさい。何日かあとにまた使いを遣ります。そのときにあなたの考えを聞かせてもらいましょう。」
父さん、僕はどうしたらいいのかわからないよ。いっぺんにいろいろなことがあってキリギリス君の心は乱れていました。その晩はめそめそと泣くばかりで答えを出せず、疲れ果てていつの間にか寝入ってしまいました。次の日の朝、目覚めると気持ちは少し落ち着いていました。冷静になって考えられそうです。キリギリス君は、女王さまのもとで働く場合と断った場合の、それぞれの見通しについて、じっくり吟味することにしました。
まずは働く場合。冬の生活が保証されるというのが一番の魅力です。まさか冬にひもじい思いをするなんて、考えもしませんでした。けれど、それがもとで父が早くに死んだのだ、と知らされた以上は無視できません。女王さまのもとで働いていれば安心です。でも歌ったり踊ったり、好きなときに好きなことができなくなりそうです。いままでの自由な生活はあきらめなければならないでしょう。そして働きアリのみんなと一緒に仕事をしなければいけないのも気にかかります。キリギリス君は彼らが苦手です。仲良くなれる気がしません。いじめられてしまうかもしれません。好きなことを我慢して、働きアリのみんなとの集団生活を我慢しなければいけないようです。
一方で断った場合。一番の利点は、いままで通りに好きなことをして、毎日楽しく過ごせることです。なにも女王さまのところでお世話にならなくても、その気になれば自分一匹で冬に備えることだってできます。でも女王さまは「強い信念がなければやりとげることはできない」といっていました。そう考えるとなんだか自信が持てません。キリギリス君はいままでに、ことを成しとげたという経験がないのです。もしできなければ、父と同じようにみじめな最期を迎えることになります。そしてもし女王さまの話を断ったと知れたら、働きアリのみんなはキリギリス君につらくあたるような気がします。草むらで会ったときに、いじめられてしまうかもしれません。
どちらの選択をしても、良いことと悪いことがあるようです。そしていずれにしても、働きアリのみんなとの関わりは足枷になりそうです。父さんならどっちを選ぶの?決めかねたキリギリス君は、そう考えるようになりました。天国の父にアドバイスを求めました。必死に父の気持ちを想像しました。
数日後、執事アリさんが再びやってきたとき、キリギリス君の覚悟はもう決まっていました。すっきりとした表情です。身支度をして執事アリさんと宮廷に向かいました。
「ごきげんようキリギリス、気持ちは定まりましたか?」
女王さまの問いかけに、キリギリス君は深々頭を下げて応えました。
「はい、女王さま。どうぞ僕に働かせてください。精一杯がんばります。」
「そうですか、よく決心してくれましたね。あなたは正しい選択をしました。わたしはあなたを国民として迎えることができて、たいへんうれしく思います。」
キリギリス君はほっとして、女王さまに微笑みました。飢えに苦しんだ父でも、同じ決断をしただろうと思いました。働きアリのみんなとのことに不安はあるけれど、それはどちらの道に進んでもついてくる問題です。ならば自分の気持ちに正直になろうと考えて、決意しました。
「それでは…」
女王さまが続けます。
「あなたのヴァイオリンを預かりましょう。」
キリギリス君は狐につままれたような顔をして言葉が出ません。ヴァイオリンはキリギリス君にとってなによりも大事な宝物です。
「キリギリス、安心なさい。なにもあなたから一生ヴァイオリンを取り上げようというのではありません。あなたがそれを大切にしているのはよく知っています。でもねキリギリス、誘惑があると仕事に身が入らないものです。仕事が忙しい時期は、それをわたしに預けなさい。わたしがしっかり管理をして、冬になったら返しましょう。そうそう、冬にあなたの演奏会を開くというのはいかがかしら?きっとみなも喜ぶでしょう。」
キリギリス君はなんだか騙されたみたいで腑に落ちません。この間呼ばれたときに女王さまは、ヴァイオリンのことなんて一言もいっていなかったからです。でも少し考えてから、素直にヴァイオリンを差し出しました。女王さまは自分のことを大事に思ってくれています。だから女王さまの気持ちに応えたいのです。それに乗りかかった船、やると決めた以上いまさらごねるのはよくないと思ったのです。
翌日執事アリさんに外回りを命じられ、キリギリス君は働き始めました。草むらをくまなく歩いて、食べ物を探します。食べ物を見つけたら合図をして仲間を呼び、みんなで力を合わせて巣まで運ぶのです。また仲間の合図を受けたらそこに駆けつけ、同じように運びます。体力のいるとてもたいへんな仕事でした。
運ぶ物は多種多様です。昆虫の死骸、腐って木から落ちた果実、脱皮したトカゲの皮、花の蜜や樹液、人間のこどもが落としたキャンディやキャラメルなど。ほとんどがキリギリス君の体よりも大きなものでした。持ち上げるたびあっちへヨタヨタ、こっちへフラフラ。それも無理はありません。キリギリス君の脚は長くて筋肉も立派。天高くジャンプするときの瞬発力は抜群です。でも重たいものを運ぶのには向いていないのです。一方働きアリのみんなは小柄だけどとても力持ち。強い足腰で食べ物を軽々と持ち上げて、どんどん運んでいます。キリギリス君はいつも叱られ、からかわれました。
「やいウラナリ!ちんたらしてちゃ仕事の邪魔だ、どきやがれ!」
「ヒョロ緑!そんなのも運べねえようじゃ、晩飯はやらねえぞ!」
「このウスノロ!そんなとこでボサっと突っ立ってたら危ねえじゃねえか馬鹿野郎!」
不名誉なあだ名をたくさん付けられ、毎日乱暴なことばで怒鳴られます。怖くて悔しくて、みんなと仕事をするのが嫌で嫌でたまりませんでした。気分が落ち込んでいました。こんなときにヴァイオリンを弾けば少しは気が晴れたでしょうが、いまのキリギリス君にはそれができません。
ある日の休憩中、キリギリス君は朝露に濡れて柔らかくなった葉っぱの芽を見つけてかぶりつきました。キリギリス君の大好物です。いつも運んでいる食べ物は、みんなにとってご馳走かもしれません。でもキリギリス君の口には合わずうんざりしていました。久しぶりに食べる新鮮な葉っぱの味は格別で、夢中で食べました。それを見ていた働きアリさんがいいました。
「よおデクノボウ、そんな気取ったもんを食ったって力がへぇらねえぞ。だからだめなんだよてめえは。ほれ、これを食え!」
彼が投げてよこしたのはタガメの内蔵と樹液を練って丸めた団子でした。こんなもの食べられないよ。キリギリス君は吐き気をもよおしました。そして同時に大切なことに気づきました。働きアリのみんなはことばが乱暴だし気性も荒い。すぐに手が出て喧嘩っ早い。でも本当はやさしくて仲間思いなのです。キリギリス君のことを思っているからこそタガメ団子をくれたのです。
思い返せば、これまで毎日みんなに叱られ続けてきました。でも嫌がらせやいじめを受けたことは一度もありません。それどころか仕事のイロハをしっかり教えてもらいました。怒鳴られ、小突かれ、おしりを蹴られながらではあったけれど。女王さまのもとにくる前、キリギリス君は働きアリのみんなのことが苦手でした。働きはじめてからはみんなのことが嫌いでした。いまは違います。愛されているとわかったからです。キリギリス君はうれしくなりました。みんなのために早く一人前になりたいと思いました。
「キリギリスの様子はどうですか?みなとうまくやっていますか?」
「へえ、女王さま。うちにきた時分はずいぶんふさぎ込んでやがって、辛気臭せえ野郎だなんてことをいってたんですがね。近ごろは明るくなりましたよ。ほかの奴らとも仲良くやってまさぁ。ただね…」
「ただ?」
「ええ、よくがんばってはいるんですがね。なかなか力がつかねえ、どうにも要領を得ねえ。もっとも奴にしてみりゃ、もとの生活とはてんで違うことをやってるんで。あっしはゆっくり仕事を覚えりゃいいじゃねえかと、そういって聞かせてるんですがね。あの野郎、ああ見えて案外生真面目なところがありまして、腕が上がらねえってんで焦ってやがるんすよ。」
「そうですか。あまり無理はさせないようにしなければなりませんね。あの子が仕事を続けられることが一番大切なのですから。」
あるとき仲間が大きな大きなキャンディを見つけました。年に一度あるかどうかという大漁です。みんなは沸き立ちました。キリギリス君も張り切って加勢しました。かけ声を合図に、みんなでキャンディを持ち上げようとしたときのことです。キリギリス君がふんばった瞬間に自慢の後脚がバネのようにバチンと弾け、その拍子にキャンディを蹴飛ばしてしまいました。キャンディは勢いよく転がり、向こうにいた一匹の働きアリさんを押し倒しました。すぐにみんなで持ち上げて助け出そうとしたのですが、下敷きになった働きアリさんの体は、太陽に照らされベトベトになったキャンディにくっついて剥がれません。どうにか引き剥がしたときには脚3本と左の触角がちぎれていました。それ以来彼はまっすぐ歩けず、時計回りにクルクルすることしかできなくなってしまいました。
僕のせいで仲間が怪我をしてしまった。キリギリス君は自責の念に駆られてひどく落ち込みました。
「おめえが気にするこたぁねえよ、奴がぼんやりしてたのがよくねえやな。」
「あのくらいのことはよくあるじゃねえか、いちいち気に病んでちゃ仕事にならねえよ。もう忘れちまいな。」
「やっこさんはてめえを恨んじゃいねえよ。なのにてめえがウジウジしてたんじゃどうにもならねえじゃねえか。」
みんなは乱暴ながら温かいことばで慰めてくれました。でもキリギリス君は立ち直れません。ついには寝込んでしまいした。この出来事が女王さまの耳に入り、キリギリス君は宮廷に呼ばれました。
「 たいへんなことでしたね、キリギリス。さぞ悲しんでいることでしょう。」
「はい女王さま。僕は自信をなくしてしまいました。いえ、もともと自信なんてありませんでしたが、もっとなくなってしまいました。僕はいるだけでみんなに迷惑をかけてしまいます。なのにみんなはとてもよくしてくれます。いまとなってはそれがなお苦しいのです。申し訳なくて…」
「あなたに外回りの仕事をさたのは少し酷だったようですね。向き不向きというものがあります。あなたの体は重たい食べ物を運ぶようにはできていないようですね。それなのに悪いことをしました。配置換えをしましょう。これからは食料庫で管理の仕事をなさい。」
「ありがとうございます、女王さま。僕に外回りの仕事は務まりません。実は頃合いをみてお暇をいただきたいとお願いに参ろうと考えていたところでした。でも女王さまのご配慮のおかげでこれからもやっていけます。がんばりますのでよろしくお願いします。」
次の日からキリギリス君は食料庫で働くようになりました。ここでは力はいらないし、みんなと息を合わせて大きなものを持ち上げる必要もありません。自分のペースで仕事ができます。ただ大きな問題がありました。それは匂いです。ここにはあらゆる食べ物が運ばれてきます。アリのみんなの好物ばかりです。ところがキリギリス君にとってはたまらなく臭いのです。キリギリス君の好物は柔らかい葉っぱでした。虫も食べますが、飛んでいる蚊や小蠅をジャンプして捕まえてその場で食べるのです。アリのように大きな虫の死骸を食べたりはしません。ましてトカゲの皮や甘いものなんてもってのほかです。食料庫にはそれらの匂いが混ざっていて、いるだけで気分が悪くなってしまいます。それでもキリギリス君は、きっと慣れる日がくると自分にいい聞かせ、女王さまの思いに応えようと我慢しました。
その年の大晦日。宮廷で恒例のパーティが開かれていました。働きアリのみんなが一同に会し、幸せそうにご馳走を食べています。女王さまは宮廷を見渡し、みんなの笑顔を眺めていました。そしてあることに気づき、執事アリさんに尋ねました。
「キリギリスの姿が見えませんね。どうしましたか?」
「はい、女王さま。キリギリスはこのところ体調を崩して臥せっております。 最近は特に塩梅が悪く、ほとんどなにも口にしていないという状態でございます。」
「 たいへんなことでしたね、キリギリス。さぞ悲しんでいることでしょう。」
「はい女王さま。僕は自信をなくしてしまいました。いえ、もともと自信なんてありませんでしたが、もっとなくなってしまいました。僕はいるだけでみんなに迷惑をかけてしまいます。なのにみんなはとてもよくしてくれます。いまとなってはそれがなお苦しいのです。申し訳なくて…」
「あなたに外回りの仕事をさたのは少し酷だったようですね。向き不向きというものがあります。あなたの体は重たい食べ物を運ぶようにはできていないようですね。それなのに悪いことをしました。配置換えをしましょう。これからは食料庫で管理の仕事をなさい。」
「ありがとうございます、女王さま。僕に外回りの仕事は務まりません。実は頃合いをみてお暇をいただきたいとお願いに参ろうと考えていたところでした。でも女王さまのご配慮のおかげでこれからもやっていけます。がんばりますのでよろしくお願いします。」
次の日からキリギリス君は食料庫で働くようになりました。ここでは力はいらないし、みんなと息を合わせて大きなものを持ち上げる必要もありません。自分のペースで仕事ができます。ただ大きな問題がありました。それは匂いです。ここにはあらゆる食べ物が運ばれてきます。アリのみんなの好物ばかりです。ところがキリギリス君にとってはたまらなく臭いのです。キリギリス君の好物は柔らかい葉っぱでした。虫も食べますが、飛んでいる蚊や小蠅をジャンプして捕まえてその場で食べるのです。アリのように大きな虫の死骸を食べたりはしません。ましてトカゲの皮や甘いものなんてもってのほかです。食料庫にはそれらの匂いが混ざっていて、いるだけで気分が悪くなってしまいます。それでもキリギリス君は、きっと慣れる日がくると自分にいい聞かせ、女王さまの思いに応えようと我慢しました。
その年の大晦日。宮廷で恒例のパーティが開かれていました。働きアリのみんなが一同に会し、幸せそうにご馳走を食べています。女王さまは宮廷を見渡し、みんなの笑顔を眺めていました。そしてあることに気づき、執事アリさんに尋ねました。
「キリギリスの姿が見えませんね。どうしましたか?」
「はい、女王さま。キリギリスはこのところ体調を崩して臥せっております。 最近は特に塩梅が悪く、ほとんどなにも口にしていないという状態でございます。」
女王さまと執事アリさんが話をしているちょうどそのとき、一匹の働きアリさんがやってきて、執事アリさんに耳打ちをしました。執事アリさんの顔が険しくなります。
「どうしたのですか?」
「はっ、たったいま、キリギリスの容態がにわかに悪化したとのことでございます。女王さまのお目にかかりたいと申しているようです。」
「そうですか。すぐ連れていらっしゃい。くれぐれも丁寧に、体に無理がかからないように気をつけるのですよ。」
キリギリス君が働きアリのみんなに担がれて、玉座の前にやってきました。やせ細ったキリギリス君は、目をつぶり苦しそうに顔をゆがめています。起き上がることはできません。にぎやかだった宮廷は静まり返りました。みんながキリギリス君に注目しています。
「キリギリス、わかりますか?」
「ぁあ、女王さま…」
キリギリス君は消え入るような小さい声で応えます。
「キリギリス、なにかいいたいことがあるのですか?」
「女王さま、こんなにみじめな姿をお目にかけることを、どうぞお許しください。きっと僕はもうだめです。ですがその前に、どうしても女王さまにお話ししたいことがあるのです。」
キリギリス君は目を閉じたまま話しました。女王さまはキリギリス君の顔を見つめ、うなずきました。
「食料庫で仕事をするようになったころから調子を崩しました。はじめは僕の苦手な匂いのせいだと思っていました。でも匂いに慣れてもよくなりませんでした。」
話すだけで疲れるようで、キリギリス君はひと呼吸つきました。
「秋が深まると、働きアリのみんなが食料庫に運んでくる物のなかに、顔見知りの亡骸を見つけることが増えました。僕が草むらに住んでいたときの仲間たちです。」
息をひそめて聞いていた働きアリのみんながざわめきました。
「いえ、みんなが死んだ虫を食べるのは自然なこと、それはよくわかっています。僕が気になったのはバッタの仲間たちが次々と死んでいるという事実です。最初にトノサマバッタさんが運ばれてきたときはショックでしたが、単に運が悪かったんだと思いました。でもそのすぐ後にコオロギ君やオンブバッタ夫妻が運ばれてくるのを見て、ただごとではないと感じました。」
女王さまは黙って聞いています。
「僕の体は日に日に悪くなっていき、もはや歌うこともできないくらいに弱っていました。ある日、スズムシちゃんの亡骸を整理していたときに、力つきて倒れてしまいました。そのとき僕は確信しました。」
「キリギリス、わかりますか?」
「ぁあ、女王さま…」
キリギリス君は消え入るような小さい声で応えます。
「キリギリス、なにかいいたいことがあるのですか?」
「女王さま、こんなにみじめな姿をお目にかけることを、どうぞお許しください。きっと僕はもうだめです。ですがその前に、どうしても女王さまにお話ししたいことがあるのです。」
キリギリス君は目を閉じたまま話しました。女王さまはキリギリス君の顔を見つめ、うなずきました。
「食料庫で仕事をするようになったころから調子を崩しました。はじめは僕の苦手な匂いのせいだと思っていました。でも匂いに慣れてもよくなりませんでした。」
話すだけで疲れるようで、キリギリス君はひと呼吸つきました。
「秋が深まると、働きアリのみんなが食料庫に運んでくる物のなかに、顔見知りの亡骸を見つけることが増えました。僕が草むらに住んでいたときの仲間たちです。」
息をひそめて聞いていた働きアリのみんながざわめきました。
「いえ、みんなが死んだ虫を食べるのは自然なこと、それはよくわかっています。僕が気になったのはバッタの仲間たちが次々と死んでいるという事実です。最初にトノサマバッタさんが運ばれてきたときはショックでしたが、単に運が悪かったんだと思いました。でもそのすぐ後にコオロギ君やオンブバッタ夫妻が運ばれてくるのを見て、ただごとではないと感じました。」
女王さまは黙って聞いています。
「僕の体は日に日に悪くなっていき、もはや歌うこともできないくらいに弱っていました。ある日、スズムシちゃんの亡骸を整理していたときに、力つきて倒れてしまいました。そのとき僕は確信しました。」
キリギリス君が少し間をおくと沈黙が宮廷を包みました。
「僕たちバッタは、もともと冬を越すことができないんです。遊んで暮らそうと、一所懸命働こうと、与えられた時間は変わらないんです。父さんは夏に怠けていたから冬に飢えて命を落としたんじゃない。寿命だったんです。」
キリギリス君は息も絶え絶え、でも続けます。
「僕はまじめに働きました。ヴァイオリンに興じていた時間を肉体労働に費やしました。冬を越すためにです。でもそれは意味のないことでした。僕は冬に死ぬ運命なのですから。僕が働いていた間に、ほかのバッタたちは結婚相手を見つけて、たくさん卵を生みました。来年の春には誰も生きていないでしょうが、彼らと血を分けた新しい命が生まれるのです。ところが僕は命をつなぐことができなかった。まったく馬鹿げたことです。女王さま、これは僕が自分で選んだ道です。女王さまにはとってもよくしていただきました。女王さまを悪く思ったり恨んだりしたことはありません。感謝の気持ちでいっぱいです。でも女王さま、ひとつだけお願いがあります。」
女王さまは身を乗り出しました。働きアリのみんなは固唾を飲んで聞いています。
「来年の夏もまた、働きアリのみんなが汗を流しているときに、キリギリスが木陰で歌っているのが気にかかることでしょう。でも、どうぞそのまま好きに遊ばせてやってください。」
女王さまは遠くを見つめて黙っています。働きアリのみんなは一様にうつむいています。執事アリさんがヴァイオリンをキリギリス君の胸元にそっと添え、持たせてやりました。キリギリス君はずっと目を閉じたまま、もうなにもしゃべりません。
キリギリス君は息も絶え絶え、でも続けます。
「僕はまじめに働きました。ヴァイオリンに興じていた時間を肉体労働に費やしました。冬を越すためにです。でもそれは意味のないことでした。僕は冬に死ぬ運命なのですから。僕が働いていた間に、ほかのバッタたちは結婚相手を見つけて、たくさん卵を生みました。来年の春には誰も生きていないでしょうが、彼らと血を分けた新しい命が生まれるのです。ところが僕は命をつなぐことができなかった。まったく馬鹿げたことです。女王さま、これは僕が自分で選んだ道です。女王さまにはとってもよくしていただきました。女王さまを悪く思ったり恨んだりしたことはありません。感謝の気持ちでいっぱいです。でも女王さま、ひとつだけお願いがあります。」
女王さまは身を乗り出しました。働きアリのみんなは固唾を飲んで聞いています。
「来年の夏もまた、働きアリのみんなが汗を流しているときに、キリギリスが木陰で歌っているのが気にかかることでしょう。でも、どうぞそのまま好きに遊ばせてやってください。」
女王さまは遠くを見つめて黙っています。働きアリのみんなは一様にうつむいています。執事アリさんがヴァイオリンをキリギリス君の胸元にそっと添え、持たせてやりました。キリギリス君はずっと目を閉じたまま、もうなにもしゃべりません。
20140902
A Pile of Sand
車で西をぐるり旅した。横浜から八王子、甲府、松本、長野と内陸を抜けて上越の海を目指し、直江津港の突き当たりを左に曲がって、日本海沿いを西に向かう。富山から金沢まで能登半島の付け根をまたぎ、敦賀、舞岡、鳥取、松江、萩…海を右に見て延々走る。下関港の端を抜け、瀬戸内海沿いを宇部、広島といく。尾道でしまなみ海道に乗り換えて四国に上陸。時計と反対に回り瀬戸大橋を目指す。
この旅で自分にふたつの制約を課した。なぜそんなことをしようと考えついたのか、今となってはよく思い出せないのだけれど、破ったからといって誰に責められるわけではないこのルールを、僕は遵守していた。ひとつは高速道路の通行禁止というもの。走るのは基本的に一般道のみで、ほかに選択肢がなくやむを得ない場合に限って有料道路の利用を認めた。急ぐ旅ではない、目的地があるわけでもない、ただ前へ前へと走るだけだ。だからさほど苦にはならなかった。特に日本海沿いは信号が少なく、渋滞も朝夕たまにあるだけだったので、問題にならなかった。瀬戸内海に入ってからは交通量が大幅に増え、渋滞にうんざりすることはあったが、音を上げるほどのものではない。
もうひとつはホテルや旅館での宿泊禁止。制約というより節約か。これもまったく苦にならなかった。旅の相棒は、知人から二束三文で譲り受けた1992年式シボレー・アストロ。重厚なウッドパネルが多用され、間接照明が天井を覆い、全席総革張り、シートアレンジはフル電動というあつらえで、バブルの申し子のような車だ。最後列ソファーがボタンひとつでベッドに変わる。適度な柔らかさのクッションで、自宅のベッドより寝心地がいいくらい。車中泊は快適そのものだった。道の駅でもいいし、トイレと自販機があるだけの長距離ドライバー用駐車場でもいい。平らなところさえあれば、そこが宿になるのだ。日中に車を走らせて、美しい景色を見つけたら降りて散歩し、ときどきコインランドリーで洗濯し、夕方に日帰り温泉でさっぱりしてから適当な場所に車を停めて休む。
めぼしいうどん屋をあらかた巡り終え、夕暮れの香川で寝床を探して走っていた。カーラジオからは地元FM局の番組が流れている。洋邦のヒット曲やリクエスト曲がかかり、合間にリスナーからのメッセージが読まれる。よくある音楽番組だ。聞くともなしに聞いているうち、だんだんパーソナリティの男性の語り口に惹きつけられてきた。独特の訛りがあり、渋く低い声でゆっくり間をあけてしゃべる。「あれ?この人途中で寝ちゃったのかな?」と思うくらいゆっくりだ。そしてその男性から語られる内容は極めて特殊だった。あこがれの先輩との初めてのデートで河原を散歩しているときに、犬のうんちを踏んでしまった女子中学生からの投稿、肉体関係を持つようになった、担任の女性教師が教頭とも不倫していることを知って、落ち込む男子高校生からの投稿、営業の外回り中にお腹を壊し、社用車の内装を汚した新人サラリーマンの投稿、性に目覚めた小学6年生の息子の手淫を、毎夜のぞき見る母親からの投稿などが読まれ、それに対して低くゆっくりコメントしていく。夕方のFMラジオで読まれるメッセージなんて「部活の練習がキツかった!」とか「さんまが安かったから今晩はさんまパーティ!」とかいった取るに足らぬもので、パーソナリティの返答だって「ガンバ!」とか「わぁ、おいしそう!」とか、他愛のないものと相場が決まっているではないか。でもこの番組は違った。常軌を逸している。思わず路肩に車を停めて聴き入った。幼稚園のプールの時間、素っ裸で走り回る息子のちんちんが終始立ちっぱなしで恥ずかしい思いをした、という主婦からの投稿を受け、パーソナリティは語り始める。
俺が通っていた幼稚園は金がなくてね、教室はあちこち傷んでボロボロだったし、机やいすもガタガタだった。もちろんプールなんてなかった。でも先生たちはいろいろ工夫してくれたよ。夏になると一日がかりで砂場を掘り返して、そこに水を張ってプールを作ってくれたんだ。今考えると衛生的にかなり問題ありそうだけどね、猫の糞がたくさん埋まってたし。年少の夏、初めて「明日はプールです」って聞いたときは、そりゃ興奮したよ。田舎だったから、プールなんていったことなかったからね。夜から海パン履いて準備してさ。で、翌日。さあプールの時間だ!って園庭に飛び出て驚いたよ。いつもの砂場の隣に、大きな大きな砂の山があるんだ。俺の背丈よりも高い山がそびえてるんだよ。そうなるともう、プールなんて目に入らないよね。巨大な砂山に心奪われて、もうそれしか見えないよね。テンション最高潮の俺は、駆け出してそのまま砂山に飛び込んだんだ。海パン一丁で砂に潜って、一心不乱に暴れたよ。そしたら積まれた砂が崩れて、ドサドサとプールに落ちていったんだ。それを見た先生が烈火の如く怒ってねえ、あんなに怒った大人を見たのは、あれが初めてだったよ。小さな俺を抱え上げてガンガン揺さぶってさ、地面に叩き付けて、バシバシ殴るんだよ。俺も必死に抵抗したけどさ、いくら女の人でもさ、大人にはかないっこないでしょ、ボコボコに伸されたよ。あれ以来俺はプールと砂場が嫌いなんだ。
この旅で自分にふたつの制約を課した。なぜそんなことをしようと考えついたのか、今となってはよく思い出せないのだけれど、破ったからといって誰に責められるわけではないこのルールを、僕は遵守していた。ひとつは高速道路の通行禁止というもの。走るのは基本的に一般道のみで、ほかに選択肢がなくやむを得ない場合に限って有料道路の利用を認めた。急ぐ旅ではない、目的地があるわけでもない、ただ前へ前へと走るだけだ。だからさほど苦にはならなかった。特に日本海沿いは信号が少なく、渋滞も朝夕たまにあるだけだったので、問題にならなかった。瀬戸内海に入ってからは交通量が大幅に増え、渋滞にうんざりすることはあったが、音を上げるほどのものではない。
もうひとつはホテルや旅館での宿泊禁止。制約というより節約か。これもまったく苦にならなかった。旅の相棒は、知人から二束三文で譲り受けた1992年式シボレー・アストロ。重厚なウッドパネルが多用され、間接照明が天井を覆い、全席総革張り、シートアレンジはフル電動というあつらえで、バブルの申し子のような車だ。最後列ソファーがボタンひとつでベッドに変わる。適度な柔らかさのクッションで、自宅のベッドより寝心地がいいくらい。車中泊は快適そのものだった。道の駅でもいいし、トイレと自販機があるだけの長距離ドライバー用駐車場でもいい。平らなところさえあれば、そこが宿になるのだ。日中に車を走らせて、美しい景色を見つけたら降りて散歩し、ときどきコインランドリーで洗濯し、夕方に日帰り温泉でさっぱりしてから適当な場所に車を停めて休む。
めぼしいうどん屋をあらかた巡り終え、夕暮れの香川で寝床を探して走っていた。カーラジオからは地元FM局の番組が流れている。洋邦のヒット曲やリクエスト曲がかかり、合間にリスナーからのメッセージが読まれる。よくある音楽番組だ。聞くともなしに聞いているうち、だんだんパーソナリティの男性の語り口に惹きつけられてきた。独特の訛りがあり、渋く低い声でゆっくり間をあけてしゃべる。「あれ?この人途中で寝ちゃったのかな?」と思うくらいゆっくりだ。そしてその男性から語られる内容は極めて特殊だった。あこがれの先輩との初めてのデートで河原を散歩しているときに、犬のうんちを踏んでしまった女子中学生からの投稿、肉体関係を持つようになった、担任の女性教師が教頭とも不倫していることを知って、落ち込む男子高校生からの投稿、営業の外回り中にお腹を壊し、社用車の内装を汚した新人サラリーマンの投稿、性に目覚めた小学6年生の息子の手淫を、毎夜のぞき見る母親からの投稿などが読まれ、それに対して低くゆっくりコメントしていく。夕方のFMラジオで読まれるメッセージなんて「部活の練習がキツかった!」とか「さんまが安かったから今晩はさんまパーティ!」とかいった取るに足らぬもので、パーソナリティの返答だって「ガンバ!」とか「わぁ、おいしそう!」とか、他愛のないものと相場が決まっているではないか。でもこの番組は違った。常軌を逸している。思わず路肩に車を停めて聴き入った。幼稚園のプールの時間、素っ裸で走り回る息子のちんちんが終始立ちっぱなしで恥ずかしい思いをした、という主婦からの投稿を受け、パーソナリティは語り始める。
俺が通っていた幼稚園は金がなくてね、教室はあちこち傷んでボロボロだったし、机やいすもガタガタだった。もちろんプールなんてなかった。でも先生たちはいろいろ工夫してくれたよ。夏になると一日がかりで砂場を掘り返して、そこに水を張ってプールを作ってくれたんだ。今考えると衛生的にかなり問題ありそうだけどね、猫の糞がたくさん埋まってたし。年少の夏、初めて「明日はプールです」って聞いたときは、そりゃ興奮したよ。田舎だったから、プールなんていったことなかったからね。夜から海パン履いて準備してさ。で、翌日。さあプールの時間だ!って園庭に飛び出て驚いたよ。いつもの砂場の隣に、大きな大きな砂の山があるんだ。俺の背丈よりも高い山がそびえてるんだよ。そうなるともう、プールなんて目に入らないよね。巨大な砂山に心奪われて、もうそれしか見えないよね。テンション最高潮の俺は、駆け出してそのまま砂山に飛び込んだんだ。海パン一丁で砂に潜って、一心不乱に暴れたよ。そしたら積まれた砂が崩れて、ドサドサとプールに落ちていったんだ。それを見た先生が烈火の如く怒ってねえ、あんなに怒った大人を見たのは、あれが初めてだったよ。小さな俺を抱え上げてガンガン揺さぶってさ、地面に叩き付けて、バシバシ殴るんだよ。俺も必死に抵抗したけどさ、いくら女の人でもさ、大人にはかないっこないでしょ、ボコボコに伸されたよ。あれ以来俺はプールと砂場が嫌いなんだ。
20140830
Moja
看護学校にモジャというあだ名の先生がいた。東アフリカのとある遊牧民族について長年研究している大学教授で、週に一度だけうちの学校にきて講義をしていた。科目は「社会学」と「世界の生活と文化」。彼は講義の終わりに決まってmoja!と叫ぶ。mojaはスワヒリ語で数字のイチという意味だ。彼はスワヒリ語を覚えることを学生に課し、期末試験では綴りの問題を出すと予告していた。彼がmoja!と叫ぶのは、数字を暗記させるためだった。moja、mbili、tatu、nne、tano…と数字を順に発音して、みんなに復唱を促す。普段はボソボソと低い声で語る彼が突然大声で叫ぶので、夢と現をさまよう学生たちはいつも飛び上がった。モジャはいかにも大学教授然とした雰囲気だった。角帽や白衣こそ身につけていないけれど、学研の教育漫画に登場する博士のような風貌だ。恰幅がよくおでこが広い。髪は長めの癖っ毛でもじゃもじゃしていた。彼がモジャとあだ名されるのは必然といえる。
モジャの授業はいつも水を打ったように静かだ。「社会学」「世界の生活と文化」という壮大なタイトルに反して、講義内容は彼が研究対象とする民族の生活や風俗といった、ミニマルな世界にのみ焦点があてられていた。一日の生活、年間行事、経済活動、結婚や子育て、首長の選定、信仰と祈り、他部族との抗争など毎回テーマはかわるものの、遠く地の果ての、知らぬコミュニティの話が延々と続く。モジャには学生の興味を引こうとか、注目させようといった意識がないらしく、抑揚や緩急は一切なしに、自身の研究についてただ淡々と述べる。まして問題を出して学生に答えさせたり、感想を発言させることなどない。モジャと学生は決して交わらないのだ。二十歳そこそこの看護学生たちにとってはこの時間が退屈この上ないようで、みんな睡魔に襲われる。始業直後、彼の低く穏やかな声が聞こえ始めると、学生たちはバタバタと机に突っ伏していき、80名の大教室があっという間に全滅だ。私語や内職をする者さえいない。
僕はモジャの授業が大好きだった。少数民族の文化や風習は興味深かったし、合間に少しずつ語られる、ヨーロッパ中東をはじめ各地を旅したときのエピソードも楽しい。講義の本分も余談も同じ調子で静かに語るので、束の間ねむ気で意識を飛ばすと、どこの話をしているのかさっぱりわからなくなるのが難点だったが。もともと僕は、人が自分の好きなことについて話しているのを聞くのが好きだ。テーマに注文はないけれど、僕の知らない分野の方がより面白い。例えば鉄道オタクが銀釜と愛称される電気機関車について語り、音楽マニアが90年頃のデトロイト・テクノの変遷を語り、三国志ファンが赤壁の戦いを「諸葛亮対周瑜」という切り口から語るのを聞きたい。さらにいえば、そのときの彼らの顔を見るのが好きだ。淀みなく弁舌さわやかに語り、満ち足りた表情をしているのを見ていると、こちらも気持ちがいい。モジャは毎週この喜びを僕に与えてくれた。声の調子は常に低く表情も変化に乏しいのだが、幸せな雰囲気は隠されることなく漂っている。ただモジャの話を聞いているだけで、ただモジャの顔を見ているだけで安らかな気分になれた。
学年末にモジャからレポート課題が出された。テーマは「世界の生活と文化」、書式や字数は自由、参考文献は不要。要するに「なんでもいいから好きなように書きなさい。提出さえすれば及第点をあげよう。」という親切課題だ。紙ペラ一枚に授業の感想文でも書けば単位はもらえるのだから、がんばる必要はない。でも僕はそうしたくなかった。一年間存分に楽しませてもらったので、お返しにモジャが面白がるようなものを書きたい。その年の正月は家族で中国を旅行した。そのときの写真を交えて、中国の食文化について述べた。自分でいうのははばかられるが、まずまず悪くない文章になったと思う。でも物足りなかった。モジャは「書式自由」といっている。形ばかりの平凡なレポートなんて期待していないはずだ。ならばと、旅行で撮った大量の写真をスライドにまとめ、ひとつひとつにキャプションをつけた。世にいう你好トイレ——便器の周囲に壁がなく用を足す姿が他人に丸見えになる中国伝統の様式——については特に力説した。トイレの全容や詳細、用を足す姿勢で見える風景など様々な視点から撮った写真をこれでもかと連ね、弟にしゃがませて外からどう見えるかを写したものも遠慮なく載せる。スライドはDVDに焼いて「おまけ」とタイトルをつけ、レポートに添えてて提出した。
返却されたレポートには赤ペンで「100点」と記され、その下に「とても興味深いレポートでした。特にトイレについての報告は秀逸でした。」とコメントされていた。 さらに「君は熱心に講義を聞いてくれましたね。ありがとう。」と書かれている。モジャと直接言葉を交わしたことはほとんどない。モジャが僕のことを認識しているなんて露も思わなかった。
モジャの授業はいつも水を打ったように静かだ。「社会学」「世界の生活と文化」という壮大なタイトルに反して、講義内容は彼が研究対象とする民族の生活や風俗といった、ミニマルな世界にのみ焦点があてられていた。一日の生活、年間行事、経済活動、結婚や子育て、首長の選定、信仰と祈り、他部族との抗争など毎回テーマはかわるものの、遠く地の果ての、知らぬコミュニティの話が延々と続く。モジャには学生の興味を引こうとか、注目させようといった意識がないらしく、抑揚や緩急は一切なしに、自身の研究についてただ淡々と述べる。まして問題を出して学生に答えさせたり、感想を発言させることなどない。モジャと学生は決して交わらないのだ。二十歳そこそこの看護学生たちにとってはこの時間が退屈この上ないようで、みんな睡魔に襲われる。始業直後、彼の低く穏やかな声が聞こえ始めると、学生たちはバタバタと机に突っ伏していき、80名の大教室があっという間に全滅だ。私語や内職をする者さえいない。
僕はモジャの授業が大好きだった。少数民族の文化や風習は興味深かったし、合間に少しずつ語られる、ヨーロッパ中東をはじめ各地を旅したときのエピソードも楽しい。講義の本分も余談も同じ調子で静かに語るので、束の間ねむ気で意識を飛ばすと、どこの話をしているのかさっぱりわからなくなるのが難点だったが。もともと僕は、人が自分の好きなことについて話しているのを聞くのが好きだ。テーマに注文はないけれど、僕の知らない分野の方がより面白い。例えば鉄道オタクが銀釜と愛称される電気機関車について語り、音楽マニアが90年頃のデトロイト・テクノの変遷を語り、三国志ファンが赤壁の戦いを「諸葛亮対周瑜」という切り口から語るのを聞きたい。さらにいえば、そのときの彼らの顔を見るのが好きだ。淀みなく弁舌さわやかに語り、満ち足りた表情をしているのを見ていると、こちらも気持ちがいい。モジャは毎週この喜びを僕に与えてくれた。声の調子は常に低く表情も変化に乏しいのだが、幸せな雰囲気は隠されることなく漂っている。ただモジャの話を聞いているだけで、ただモジャの顔を見ているだけで安らかな気分になれた。
学年末にモジャからレポート課題が出された。テーマは「世界の生活と文化」、書式や字数は自由、参考文献は不要。要するに「なんでもいいから好きなように書きなさい。提出さえすれば及第点をあげよう。」という親切課題だ。紙ペラ一枚に授業の感想文でも書けば単位はもらえるのだから、がんばる必要はない。でも僕はそうしたくなかった。一年間存分に楽しませてもらったので、お返しにモジャが面白がるようなものを書きたい。その年の正月は家族で中国を旅行した。そのときの写真を交えて、中国の食文化について述べた。自分でいうのははばかられるが、まずまず悪くない文章になったと思う。でも物足りなかった。モジャは「書式自由」といっている。形ばかりの平凡なレポートなんて期待していないはずだ。ならばと、旅行で撮った大量の写真をスライドにまとめ、ひとつひとつにキャプションをつけた。世にいう你好トイレ——便器の周囲に壁がなく用を足す姿が他人に丸見えになる中国伝統の様式——については特に力説した。トイレの全容や詳細、用を足す姿勢で見える風景など様々な視点から撮った写真をこれでもかと連ね、弟にしゃがませて外からどう見えるかを写したものも遠慮なく載せる。スライドはDVDに焼いて「おまけ」とタイトルをつけ、レポートに添えてて提出した。
返却されたレポートには赤ペンで「100点」と記され、その下に「とても興味深いレポートでした。特にトイレについての報告は秀逸でした。」とコメントされていた。 さらに「君は熱心に講義を聞いてくれましたね。ありがとう。」と書かれている。モジャと直接言葉を交わしたことはほとんどない。モジャが僕のことを認識しているなんて露も思わなかった。
20140828
The Hundred Plus
闇の中を必死で走っている。周囲の闇よりもっと真っ黒でどろどろとした闇に追われている。僕は捕まらないように全速力で逃げる。苦しい。息が切れ胸は今にも爆発しそうだが、少しでも速度を落とせば一巻の終わり、闇に飲み込まれて命はない。だからひたすら走る。しかし巨大な闇は徐々に背後に迫り、ついに僕に覆い被さった。「ああ、だめだ、もうおしまいだ。」絶望した瞬間に目が覚める。全身にびっしょり汗をかいている。こどものころに熱を出すと決まって見た夢だ。この間久しぶりにあの夢を見た。
僕はひとり旅をすることが多いけれど、好きでそうしているわけじゃない。たしかにひとりだと気兼ねなくのんびりできるし、ちょっとしたことで道連れと揉めることもないので悪くはない。でもやっぱり寂しい。美しい情景に身を置いたとき、美味しいものを食べたとき、隣に人がいれば感動は何倍も大きくなる。旅行はひとりよりみんなでした方が断然いい。だから必ず友だちを誘うのだが、一緒にいってくれる人が見つからないことがほとんどだ。道連れがいないからといって旅の衝動を我慢することはできないので、いつもやむなくひとりで出掛ける。
今度の旅は珍しく友だちの賛同を得られ、休みを合わせることができた。何年ぶりかの人との旅に僕はおおいに張り切った。航空券や宿の手配を喜んで引き受け、旅のプランをあれこれ考えて提案する。出発の日、気分は最高潮だ。羽田でみんなと待ち合わせ、離陸までのひとときビール片手に喜びを噛みしめた。ひとり旅じゃないことがうれしくて仕方ない。クアラルンプールに住む友だちを訪ねる旅だった。
KLIA2で当地の友だちと落ち合い、まずはプロトンのレンタカーを駆ってマラッカを目指す。海外で車の旅なんてひとりじゃなかなかできない、みんなでいく旅ならではの醍醐味だ。宿はいいところを選んだ。ひとりで旅行するなら、宿なんて安ければそれでいい。でも、せっかくみんなと過ごすんだから快適なところをと、ノスタルジックで優雅なホテルにした。夕飯はニョニャ料理の卓をみんなで囲み、食後にはライトアップされた旧市街に流れる運河をクルージング。ひとり旅では味わえないことばかりだ。
翌日はあちこち寄り道をしながらクアラルンプールに戻る。郊外にある友だちの家に泊めてもらうことになっていた。夕方、高速道路を走っているとお腹がグルグルした。食い意地が張っている僕は、旅先で必ずといっていいほどお腹を壊す。食べ過ぎるのだ。毎度のことなのでさして気に留めなかったが、これから渋滞に捕まるかもしれない、念のためにサービスエリアでトイレにいって正露丸も飲んだ。僕はこれまで世界各地で正露丸の効能を実感し、ラッパのマークに全幅の信頼を寄せている。よし、これで大丈夫。安心して運転に集中できる。クアラルンプール近郊の高速道路は「これぞ東南アジア」といえるものだ。トラック、乗用車、バス、走っている車のすべてが猛スピード猛プッシュ、バイクは右から左から追突寸前の強引な車線変更と急ブレーキを繰り返す。非常にエキサイティングな帰宅ラッシュをなんとかクリアして友人宅に着いた。
大理石張りのひんやり涼しいリビングでひと休みし、さて夕飯を食べに出ようという段になって、またお腹がおかしくなってきた。さっき正露丸を飲んだのに、どういうことだろう。それでもいつもであれば、なんのこれしきと気にせず食事をしただろう。でも明日は一大イベントが控えている。友だちのご主人の実家で、お母さんが手料理を振る舞ってくれることになっているのだ。僕はこの旅でこの食事会を一番の楽しみにしていた。異国の地で家庭料理をいただく機会なんてそうあるものじゃない。お腹の具合がよくないせいで、お母さんのご馳走を存分に楽しめない、という状況は是が非でも避けたい。今日のところは養生して、コンディションを整えるべきだ。夕飯は僕抜きでいっておいで、とみんなに伝えると、だったらテイクアウトのマレー料理を買ってきて家で食べよう、君も少しつまむくらいならできるでしょ、と友だちがいってくれた。ありがたい。買い物はみんなに任せて、僕は留守番をしていた。しばらくするとなんだか体がだるくなってきた。そのあと手足が冷たくなり、下っ腹が震え、奥歯がガチガチ鳴り止まなくなった。毛布に包まりソファで丸くなった。
気がつくとみんなが僕の顔を心配そうにのぞき込んでいる。いつの間にか寝入っていたみたいだ。寒気がなくなったかわりに焼けるように暑い。そして猛烈にお腹が痛い。どうやらただの食べ過ぎじゃなさそうだ。熱はあと少しで40℃というところ。みんながあれこれ声をかけてくれるのだが、音が歪んでなにをいっているのかよくわからない。聞き取れても考えられないので、まともな返事ができない。とにかくだるくて眠い。朦朧としながら手元にあった解熱剤ともう一度正露丸を飲み、倒れるように床に就いた。
あの怖い夢を見た。何度も見た。 闇に飲まれるギリギリのところで目を覚まし、汗をぬぐう。よろめきながらバスルームにいって用を足す。熱が下がっていないことを体温計で確認する。飲み物を口にして眠る。そしてまた闇に飲まれるギリギリのところで目を覚まし…。同じことが1時間おきに繰り返された。このまま永遠に続くのではないかと思えてくる。三日三晩怖い夢と下痢に苦しんだ。そしてみんなに心配をかけ、気を遣わせた。
こどものころ、熱を出したときには悪夢を見るのともうひとつ、どういうわけか左手の親指をしゃぶるのが癖だった。ごく幼いときにはのべつしゃぶっていた。幼稚園に上がるころには治まっていたのだけれど、ずいぶん大きくなってからも熱を出すと無意識にしゃぶってしまう。小学生時代、風邪で寝込んだときにこの指しゃぶりを家族に見られてひやかされ、ひどく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。
闇の夢にうなされて目を覚ました。結局お母さんのご馳走にはありつけず、みんなでクアラルンプールの街に繰り出して市場で買い物することも、ブルーモスクに詣でることも、屋台街でチキンライスを食べることも、高層ビルのヘリパッドで夜景を眺めながら酒を飲むことも叶わなかった。ただ友だちの家の客間とバスルームを往復して過ごした。今が昼なのか夜なのかもわからない。バスルームから這って戻り、水を飲もうとタンブラーを持ったとき左手に目が留った。親指の節の下にくっきりと歯形がついている。寝ている間に指しゃぶりをしていたらしい。遠い昔の癖がよみがえったのだ。四十手前の男がウーウーと喘ぎ、べったりと寝汗をかきながら親指をしゃぶっているなんて想像しただけで気色が悪い。みんなは僕のおぞましい姿を見てしまったのだろうか。
僕はひとり旅をすることが多いけれど、好きでそうしているわけじゃない。たしかにひとりだと気兼ねなくのんびりできるし、ちょっとしたことで道連れと揉めることもないので悪くはない。でもやっぱり寂しい。美しい情景に身を置いたとき、美味しいものを食べたとき、隣に人がいれば感動は何倍も大きくなる。旅行はひとりよりみんなでした方が断然いい。だから必ず友だちを誘うのだが、一緒にいってくれる人が見つからないことがほとんどだ。道連れがいないからといって旅の衝動を我慢することはできないので、いつもやむなくひとりで出掛ける。
今度の旅は珍しく友だちの賛同を得られ、休みを合わせることができた。何年ぶりかの人との旅に僕はおおいに張り切った。航空券や宿の手配を喜んで引き受け、旅のプランをあれこれ考えて提案する。出発の日、気分は最高潮だ。羽田でみんなと待ち合わせ、離陸までのひとときビール片手に喜びを噛みしめた。ひとり旅じゃないことがうれしくて仕方ない。クアラルンプールに住む友だちを訪ねる旅だった。
KLIA2で当地の友だちと落ち合い、まずはプロトンのレンタカーを駆ってマラッカを目指す。海外で車の旅なんてひとりじゃなかなかできない、みんなでいく旅ならではの醍醐味だ。宿はいいところを選んだ。ひとりで旅行するなら、宿なんて安ければそれでいい。でも、せっかくみんなと過ごすんだから快適なところをと、ノスタルジックで優雅なホテルにした。夕飯はニョニャ料理の卓をみんなで囲み、食後にはライトアップされた旧市街に流れる運河をクルージング。ひとり旅では味わえないことばかりだ。
翌日はあちこち寄り道をしながらクアラルンプールに戻る。郊外にある友だちの家に泊めてもらうことになっていた。夕方、高速道路を走っているとお腹がグルグルした。食い意地が張っている僕は、旅先で必ずといっていいほどお腹を壊す。食べ過ぎるのだ。毎度のことなのでさして気に留めなかったが、これから渋滞に捕まるかもしれない、念のためにサービスエリアでトイレにいって正露丸も飲んだ。僕はこれまで世界各地で正露丸の効能を実感し、ラッパのマークに全幅の信頼を寄せている。よし、これで大丈夫。安心して運転に集中できる。クアラルンプール近郊の高速道路は「これぞ東南アジア」といえるものだ。トラック、乗用車、バス、走っている車のすべてが猛スピード猛プッシュ、バイクは右から左から追突寸前の強引な車線変更と急ブレーキを繰り返す。非常にエキサイティングな帰宅ラッシュをなんとかクリアして友人宅に着いた。
大理石張りのひんやり涼しいリビングでひと休みし、さて夕飯を食べに出ようという段になって、またお腹がおかしくなってきた。さっき正露丸を飲んだのに、どういうことだろう。それでもいつもであれば、なんのこれしきと気にせず食事をしただろう。でも明日は一大イベントが控えている。友だちのご主人の実家で、お母さんが手料理を振る舞ってくれることになっているのだ。僕はこの旅でこの食事会を一番の楽しみにしていた。異国の地で家庭料理をいただく機会なんてそうあるものじゃない。お腹の具合がよくないせいで、お母さんのご馳走を存分に楽しめない、という状況は是が非でも避けたい。今日のところは養生して、コンディションを整えるべきだ。夕飯は僕抜きでいっておいで、とみんなに伝えると、だったらテイクアウトのマレー料理を買ってきて家で食べよう、君も少しつまむくらいならできるでしょ、と友だちがいってくれた。ありがたい。買い物はみんなに任せて、僕は留守番をしていた。しばらくするとなんだか体がだるくなってきた。そのあと手足が冷たくなり、下っ腹が震え、奥歯がガチガチ鳴り止まなくなった。毛布に包まりソファで丸くなった。
気がつくとみんなが僕の顔を心配そうにのぞき込んでいる。いつの間にか寝入っていたみたいだ。寒気がなくなったかわりに焼けるように暑い。そして猛烈にお腹が痛い。どうやらただの食べ過ぎじゃなさそうだ。熱はあと少しで40℃というところ。みんながあれこれ声をかけてくれるのだが、音が歪んでなにをいっているのかよくわからない。聞き取れても考えられないので、まともな返事ができない。とにかくだるくて眠い。朦朧としながら手元にあった解熱剤ともう一度正露丸を飲み、倒れるように床に就いた。
あの怖い夢を見た。何度も見た。 闇に飲まれるギリギリのところで目を覚まし、汗をぬぐう。よろめきながらバスルームにいって用を足す。熱が下がっていないことを体温計で確認する。飲み物を口にして眠る。そしてまた闇に飲まれるギリギリのところで目を覚まし…。同じことが1時間おきに繰り返された。このまま永遠に続くのではないかと思えてくる。三日三晩怖い夢と下痢に苦しんだ。そしてみんなに心配をかけ、気を遣わせた。
こどものころ、熱を出したときには悪夢を見るのともうひとつ、どういうわけか左手の親指をしゃぶるのが癖だった。ごく幼いときにはのべつしゃぶっていた。幼稚園に上がるころには治まっていたのだけれど、ずいぶん大きくなってからも熱を出すと無意識にしゃぶってしまう。小学生時代、風邪で寝込んだときにこの指しゃぶりを家族に見られてひやかされ、ひどく恥ずかしい思いをしたのを覚えている。
闇の夢にうなされて目を覚ました。結局お母さんのご馳走にはありつけず、みんなでクアラルンプールの街に繰り出して市場で買い物することも、ブルーモスクに詣でることも、屋台街でチキンライスを食べることも、高層ビルのヘリパッドで夜景を眺めながら酒を飲むことも叶わなかった。ただ友だちの家の客間とバスルームを往復して過ごした。今が昼なのか夜なのかもわからない。バスルームから這って戻り、水を飲もうとタンブラーを持ったとき左手に目が留った。親指の節の下にくっきりと歯形がついている。寝ている間に指しゃぶりをしていたらしい。遠い昔の癖がよみがえったのだ。四十手前の男がウーウーと喘ぎ、べったりと寝汗をかきながら親指をしゃぶっているなんて想像しただけで気色が悪い。みんなは僕のおぞましい姿を見てしまったのだろうか。
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