僕は美味しいものを食べるのが大好きだ。だから美食家や食通と称されるような人になりたいと思っていた。鋭敏な味覚が人に評価されることに憧れていた。でもなれなかった。例えば焼津の漁港で水揚げされたばかりの鰹を、例えば上海の有名な高級店で子持の蒸し蟹を、例えば伊勢佐木町の老舗でブランド牛のすき焼きを食べると、とても幸せな気持ちになる。そして残念なことに、マクドナルドでビッグマックを食べても、富士そばでコロッケそばを食べても、街の定食屋で生姜焼きを食べても、同じように幸せな気分になってしまう。要するに僕は美食家とはほど遠い、ただ食い意地が張っているだけの味音痴なのだ。なにを食べても美味しく感じるので、焼き加減がまずいだの下処理がなっていないだの、ことあるごとに眉間にしわを寄せる美食家よりも、ある意味では恵まれているのかもしれない。
味の善し悪しを語れるだけの舌を持ち合わせていない僕がいうのはおこがましいのだが、昨今の食についての風潮に一言——なんでもかんでも塩で食べさようというのは面白くない。ちょっと気取った薄暗がりの店で料理が供されるときに、店員さんが「素材そのものの風味を楽しんで頂きたいので、是非お塩だけでお召し上がりください。」なんてことをいう。出されるのは取り立てて騒ぐほどのことはない、揚げ物や焼いた肉だ。刺身や茹で野菜まで塩で食えと迫られることもある。もちろん塩だけで食べるのが最良の選択という場合はたくさんある。よく太った江戸前穴子の、皮の香ばしさを味わうなら白焼きが一番だし、真夏に熟れたトマトや瑞々しいきゅうりを、穫ったそばから塩を振ってかじりついたときの美味さといったらない。材料の質の高さや新鮮さは自慢になるだろうが、料理を出して金を取ろうという者が、それにべったり寄りかかってはいけない。いい食材に塩をかけて食うだけなら誰がやったって美味いのだから、わざわざその店で食べる必要がないじゃないか。僕は作り手が感性や経験を注いでこしらえた料理を味わいたい。
シチリアのパレルモにパスタ・コン・サルデという、鰯が主役の郷土料理がある。おろした鰯とウイキョウの葉、松の実、干しぶどうを合わせて煮込んだものに、ブカティーニやスパゲティなどの太いロングパスタを絡め、仕上げにオリーブ油で煎った香りパン粉をまぶす。これがとびっきり美味い。魚臭さはまったくなく、むしろ鰯とはこんなにいい香りのする魚だったのかと驚かされるのだ。爽やかさと野性味が同居したウイキョウ特有の苦みが鰯の風味を増幅し、松の実のコク、干しぶどうの酸味や甘みは鰯の旨味と解け合ってヴィヴィッドな味わいをもたらす。一般的な日本人の感覚からすれば、あまり馴染みのないウイキョウはさておき、鰯と松の実や干しぶどうを一緒に料理することには違和感があるだろう。だがこれが想像をこえた相性なのだ。鰯が嫌いな人、松の実や干しぶどうが苦手な人にこそ食べてもらいたい。絶対に美味しく食べられると保証する。初めて感じる奥深い風味に心酔するに違いない。組み合わせの妙でそれぞれの材料が持つ魅力を互いに際立たせるパスタ・コン・サルデは、料理の真骨頂といっていい。この料理に使われる鰯は日本でなら刺身にするような獲れたてのものだが、パレルモの料理人たちはそんなことを鼻に掛けない。鮮度の良さは当たり前、最低条件だからだ。彼らは材料の配分、煮込みの時間や火加減、麺を絡める間合いなどの調理方法を独自に追求していて、それにこそ誇りを感じている。自分の舌と腕が自慢なのだ。臆面もなく「素材のよさを感じるために味付けは塩だけでシンプルに…」などとうわごとを語る似非料理人は、一度パレルモにいってパスタ・コン・サルデを食べていらっしゃい。
20131206
20131202
The Movies with Tears
爆笑問題の太田光によれば「映画涙」なるものがあるという。「映画には中身に泣くんじゃなくて、映画涙ってのが別にあると。映画ファンが映画を観て映画ってすごいって思ったときに——ああ、こんな撮り方してるんだとか、あ、この演出すごいって思ったときに、涙が出てくる。それを映画涙っていうんですよ」と。登場人物に共感しドラマチックな盛り上がりに感情を揺さぶられて泣くのではなく、「これぞ映画だ」とうれしくなるような、映画でしか味わえない感動に出会ったときに流れる涙だ。
現代版カラーズともいうべき「エンド・オブ・ウォッチ」は、世界屈指の犯罪多発地域、ロサンゼルスのサウスセントラルを舞台にした、テイラーとサヴァラという制服警官二人組の物語だ。身につけたボディカメラやパトカーの車載カメラを通して、次々起きる事件の現場に急行し体を張って対応する彼らの姿を、断片的に、しかし圧倒的な躍動感とリアリティで映し出す。突発的な暴力や不可避な危機の応酬に、観る者は緊張の持続を強いられる。パトカーで巡回しながら二人が交わす馬鹿話や、休日に家族や恋人と過ごす穏やかな時間も描くことで、彼らの勤務の過酷さがことさらに際立っている。
現代版カラーズともいうべき「エンド・オブ・ウォッチ」は、世界屈指の犯罪多発地域、ロサンゼルスのサウスセントラルを舞台にした、テイラーとサヴァラという制服警官二人組の物語だ。身につけたボディカメラやパトカーの車載カメラを通して、次々起きる事件の現場に急行し体を張って対応する彼らの姿を、断片的に、しかし圧倒的な躍動感とリアリティで映し出す。突発的な暴力や不可避な危機の応酬に、観る者は緊張の持続を強いられる。パトカーで巡回しながら二人が交わす馬鹿話や、休日に家族や恋人と過ごす穏やかな時間も描くことで、彼らの勤務の過酷さがことさらに際立っている。
エンド・オブ・ウォッチということばは制服警官たちの符丁で、二通りの意味を持っているという。ひとつは「勤務時間終了」、もうひとつは「殉職」を意味するらしい。警官のコンビが主役の作品で題名が殉職とくれば、最後に警官が死ぬのは観なくてもわかる。問題は誰が死ぬかだ。これによって物語の性質は大きく変わる。死ぬ警官は順列組み合わせで4通り。つまり、テイラーが死ぬ、サヴァラが死ぬ、テイラーとサヴァラの両方死ぬ、二人以外の警官が死ぬ、のいずれかだ。
待っていた結末は、考えられる中で最も悲劇的だった。あまりに虚しく、末端の制服警官が背負うには重すぎる現実が突きつけられた。感情移入したキャラクターの死が悲しいんじゃない。サウスセントラルの抱える問題の大きさと、そこに立ち向かう制服警官の性を、これでもかというほど端的に表現した「警官の死」に震えた。そこにカタルシスはなかった。
ただのエイリアン映画に留まらず、差別問題を痛烈に風刺した社会派作品、というのが「第9地区」に対する世間の評価のようだ。見た目の醜さからエビと蔑称されるエイリアンの難民を特別居住区——第9地区に隔離し、下劣な彼らに自由を与えず抑圧するという設定が、舞台である南アフリカのアパルトヘイト政策を想起させるからだろう。だがこの作品が魅力的なのは、政治的な批判に富んでいるからではなく、もっと切実な人間の本質をえぐって、それを観る者に示しているからだと思う。
主人公のヴィカスは、それなりの正義感やほどほどの家族愛、ちょっとの出世欲を持ち合わせた、どこにでもいる男だ。基本的には善意の人である。第9地区はスラム化し治安が悪化ているため、新たな隔離場所へのエビの強制移送が決まり、その指揮をヴィカスが執ることになった。彼はこれを出世のチャンスと捉えて意欲的に取り組むのだが、エビたちに対する振る舞いが横柄この上なく、見ていてとても不快だ。彼に悪意はなく、むしろ人類のため、自身の所属する組織のため、愛する妻のためと、彼なりの善意に基づいて行動しているからたちが悪い。正しいことをしているという意識から、エビたちを躊躇なくさげすみ、いじめ、暴力を振うのだ。観客は次第にヴィカスを嫌悪するようになる。物語の中盤である出来事をきっかけに、ヴィカスは孤立して組織から追われる身になる。これまで意気揚々とエビたちをこき下ろしていたが一転し、彼自身が世間から差別される立場になってしまう。組織の追跡に怯え、家族や友人たちから見放されて悲嘆するヴィカス。惨めな彼を見ているうちに、観客は我に返る。無自覚な差別に嫌悪していた自分も、無意識に差別をしていた、と。観客は知らぬ間にヴィカスをさげすんでいたのだ。
差別を題材にした映画は星の数ほどあるが、そのほとんどは差別される者に焦点を当てて描き、同情や嘆きの涙を誘う。一方で「第9地区」は差別する側の意識に迫る。差別は常に無自覚だ。だから差別は残酷なのだ。観客に差別をする過程を疑似体験させ、内省を促すシステムとして、この作品は機能している。それに気づいたときに涙が出た。
例えば「ユージュアル・サスペクツ」のように、練りに練ったストーリーテリングで観客を翻弄するような作品も悪くはない。でもどちらかというと、小難しい筋書きがなく気楽に観れる作品の方が好きだ。「ワイルド・スピード」シリーズはその最たるものだと思う。どの作品のどの場面を見ても、派手に改造されたスポーツカーが派手に走り回り、派手に転がり、派手に爆発する。金太郎飴のようなマンネリの物語はしかし、気負わずに観れていつでも楽しめるという安心感があるのだ。寅さんシリーズや水戸黄門のように、延々と同じような作品を作り続けてほしいと願う。「The Fast and The Furious」というすばらしい原題を、田舎臭く書き換えた日本の配給会社に当初は怒りを覚えたが、いまとなっては慣れたし愛着さえ感じるようになった。
シリーズ第1作の冒頭、ドラッグレースの描写は「ワイルド・スピード」を象徴するシーンだ。1/4マイルの直線で速さを競うストリートレース。4台のチューンドカーが横並びになり、よーいドンのかけ声で一斉に走り出す。カメラはヴィン・ディーゼルのシフトノブからトランスミッションに入り、ロータリーエンジンのシリンダー内を通るとターボのタービンを抜けて、炎とともにマフラーから出る。4台の車は徐々に差が開きポール・ウォーカーが最後尾だ。アクセル全開で食らいつくが追いつかない。ウォーカーがNOSのスイッチを押すとシリンダーにニトロガスが噴射され、爆発的な加速に背景がグニャリと歪む。あっという間に先頭のディーゼルに追いつき、もう一度NOSを加給する。過剰な出力に耐えきれず、床板が火花を散らしながら飛んでいったが、トップに躍り出ることができた。だが次の瞬間、ディーゼルもNOSを使用して猛烈に加速、ゴールの直前に抜き返されてしまう。スタートからゴールまで実際には10秒あまりで決着するレースが、2分以上かけて描かれている。初めて見たときにはあまりに長いので思わず笑ってしまった。
この2分間がシリーズの骨格になる信念を築いた。細かいことはどうでもいい、理屈なんて問題じゃない、とにかく車がかっこよく走る姿を表現するんだ。以来「ワイルド・スピード」は観る者の度肝を抜く、馬鹿馬鹿しいほどに魅力的な車の映像を描き続けている。
きのうの夕方、たまたまこのドラッグレースの場面をユーチューブで観ていたときに、友だちからメールがきた。ポール・ウォーカー氏の訃報について書かれていた。ご冥福をお祈りします。
待っていた結末は、考えられる中で最も悲劇的だった。あまりに虚しく、末端の制服警官が背負うには重すぎる現実が突きつけられた。感情移入したキャラクターの死が悲しいんじゃない。サウスセントラルの抱える問題の大きさと、そこに立ち向かう制服警官の性を、これでもかというほど端的に表現した「警官の死」に震えた。そこにカタルシスはなかった。
ただのエイリアン映画に留まらず、差別問題を痛烈に風刺した社会派作品、というのが「第9地区」に対する世間の評価のようだ。見た目の醜さからエビと蔑称されるエイリアンの難民を特別居住区——第9地区に隔離し、下劣な彼らに自由を与えず抑圧するという設定が、舞台である南アフリカのアパルトヘイト政策を想起させるからだろう。だがこの作品が魅力的なのは、政治的な批判に富んでいるからではなく、もっと切実な人間の本質をえぐって、それを観る者に示しているからだと思う。
主人公のヴィカスは、それなりの正義感やほどほどの家族愛、ちょっとの出世欲を持ち合わせた、どこにでもいる男だ。基本的には善意の人である。第9地区はスラム化し治安が悪化ているため、新たな隔離場所へのエビの強制移送が決まり、その指揮をヴィカスが執ることになった。彼はこれを出世のチャンスと捉えて意欲的に取り組むのだが、エビたちに対する振る舞いが横柄この上なく、見ていてとても不快だ。彼に悪意はなく、むしろ人類のため、自身の所属する組織のため、愛する妻のためと、彼なりの善意に基づいて行動しているからたちが悪い。正しいことをしているという意識から、エビたちを躊躇なくさげすみ、いじめ、暴力を振うのだ。観客は次第にヴィカスを嫌悪するようになる。物語の中盤である出来事をきっかけに、ヴィカスは孤立して組織から追われる身になる。これまで意気揚々とエビたちをこき下ろしていたが一転し、彼自身が世間から差別される立場になってしまう。組織の追跡に怯え、家族や友人たちから見放されて悲嘆するヴィカス。惨めな彼を見ているうちに、観客は我に返る。無自覚な差別に嫌悪していた自分も、無意識に差別をしていた、と。観客は知らぬ間にヴィカスをさげすんでいたのだ。
差別を題材にした映画は星の数ほどあるが、そのほとんどは差別される者に焦点を当てて描き、同情や嘆きの涙を誘う。一方で「第9地区」は差別する側の意識に迫る。差別は常に無自覚だ。だから差別は残酷なのだ。観客に差別をする過程を疑似体験させ、内省を促すシステムとして、この作品は機能している。それに気づいたときに涙が出た。
例えば「ユージュアル・サスペクツ」のように、練りに練ったストーリーテリングで観客を翻弄するような作品も悪くはない。でもどちらかというと、小難しい筋書きがなく気楽に観れる作品の方が好きだ。「ワイルド・スピード」シリーズはその最たるものだと思う。どの作品のどの場面を見ても、派手に改造されたスポーツカーが派手に走り回り、派手に転がり、派手に爆発する。金太郎飴のようなマンネリの物語はしかし、気負わずに観れていつでも楽しめるという安心感があるのだ。寅さんシリーズや水戸黄門のように、延々と同じような作品を作り続けてほしいと願う。「The Fast and The Furious」というすばらしい原題を、田舎臭く書き換えた日本の配給会社に当初は怒りを覚えたが、いまとなっては慣れたし愛着さえ感じるようになった。
シリーズ第1作の冒頭、ドラッグレースの描写は「ワイルド・スピード」を象徴するシーンだ。1/4マイルの直線で速さを競うストリートレース。4台のチューンドカーが横並びになり、よーいドンのかけ声で一斉に走り出す。カメラはヴィン・ディーゼルのシフトノブからトランスミッションに入り、ロータリーエンジンのシリンダー内を通るとターボのタービンを抜けて、炎とともにマフラーから出る。4台の車は徐々に差が開きポール・ウォーカーが最後尾だ。アクセル全開で食らいつくが追いつかない。ウォーカーがNOSのスイッチを押すとシリンダーにニトロガスが噴射され、爆発的な加速に背景がグニャリと歪む。あっという間に先頭のディーゼルに追いつき、もう一度NOSを加給する。過剰な出力に耐えきれず、床板が火花を散らしながら飛んでいったが、トップに躍り出ることができた。だが次の瞬間、ディーゼルもNOSを使用して猛烈に加速、ゴールの直前に抜き返されてしまう。スタートからゴールまで実際には10秒あまりで決着するレースが、2分以上かけて描かれている。初めて見たときにはあまりに長いので思わず笑ってしまった。
この2分間がシリーズの骨格になる信念を築いた。細かいことはどうでもいい、理屈なんて問題じゃない、とにかく車がかっこよく走る姿を表現するんだ。以来「ワイルド・スピード」は観る者の度肝を抜く、馬鹿馬鹿しいほどに魅力的な車の映像を描き続けている。
きのうの夕方、たまたまこのドラッグレースの場面をユーチューブで観ていたときに、友だちからメールがきた。ポール・ウォーカー氏の訃報について書かれていた。ご冥福をお祈りします。
20131125
Sacramentum Poenitentiae et Reconciliationis
カトリック教会のミサの冒頭、回心の祈り。
「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。わたしは思い、ことば、行ない、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。」
猫も杓子もエヴァンゲリオン、という時期に僕も熱狂した。ビデオを繰り返し観て、プラモデルを組み立て、ガチャガチャを集めた。1、2年してブームが落ち着くと、手当り次第におもちゃをほしがることはなくなったが、貞本エヴァと通称される連載マンガの単行本を、発売当日に買い求めるくらいの熱量は保っていた。
あるときエヴァンゲリオンを観ていない友だちに、魅力はなにかと尋ねられた。流行が収まりエヴァについて話すことが少なくなっていたし、ほろ酔いだったのもあってひさしぶりに熱く語った。そして観ていない奴は馬鹿だといわんばかりに捲し立て、とにかく観るべきだと猛烈に勧めた。もともとアニメやマンガが嫌いじゃない彼はさっそく観たようで、すぐに面白かったと感想が返ってきた。いまも連載中のマンガがある、単行本は全部持っている、と僕がいうと、彼はぜひ貸してほしいと身を乗り出した。自分の好きな作品に興味を示されれば、悪い気はしない。5巻だか6巻だかまで出ていた単行本を、まとめて彼に貸した。
それから数ヶ月、待てど暮らせど単行本は返ってこない。早く返せよと何度か催促したが彼はのらりくらりとするばかり、単に返すのが億劫なのか、コーヒーでもこぼして返すに返せないのか、とにかく戻ってこなかった。よくある話だ。僕も借りたものを返すのが面倒でほったらかしにしてしまった経験はあるので、彼の気持ちがわからないではない。時間が経てば経つほどなんだか気まずく、返しにくいのだろう。しかし気に入りのマンガを、そのままにしておくのは面白くない。彼は近所に住んでいた。アパートにいるのを見計らって、取り返しにいけばことは簡単に解決するだろう。でも僕が赴くのではなく、彼が返しにくるのが筋じゃないか。取りにいってしまっては僕の負けのような気がする。本来は勝ちも負けもないはずなのに、僕は勝手に我慢比べを始めていた。この勝負を制したい。そしていつの頃からか、僕をやきもきさせた彼を、どうにかして懲らしめてやりたいと思うようになっていた。
最新刊の発売日、僕は貸している分も改めて全巻買い直した。そしてこの日から、彼に早く返せとせっつくのをやめた。
それからまたしばらくして、飲んでいるときに彼が「そういえば、エヴァを返さないとね。」といった。僕はこの瞬間を待ち構えていた。静かな湖面に釣り糸を垂らして、じっと待っていた。ようやく獲物が掛かったのだ。うれしさのあまり声がうわずりそうなのを必死でこらえ、努めて普段通りのトーンで答えた。「ああ、あれ、もう返さなくていいよ。」彼は僕のことばが飲み込めなくて、きょとんとしている。僕は「新しく買ったからもういいよ。貸してるやつはいらないからお前にやるよ。」と付け足した。彼はまだ混乱している。「え…、買い直したの?」「うん、うちに全巻揃ってるよ。だから返さなくていい。うまくやったな、借りパク成功じゃん。」「いや、そんなつもりは…。」彼の顔色がどんどん悪くなるが快感だった。僕は声の調子をひとつ下げ、淡々と詰め寄る。「やるっていってんだから貰えよ。」「でも、貰うのは、さすがに、悪いよ。」「ほう、悪い?悪いと思ってるのか?」「…うん。」「借りたものを返さないのはよくないって思う?」「う、うん…ごめん。」もう完全に僕のペース、彼はしどろもどろになって、いまにも泣きだしそうだ。マンガは返ってこないが、彼を締め上げて精神的な打撃を与えることができた。僕は悦に入っていた。彼はうつむき黙っている。僕が次になにをいいだすのか、不安でおびえている様子だった。もう勝負はついている。追い打ちをかけるのは酷だ。でも彼の姿を見ていたら、もう少し意地悪をしたくなり難題を吹っかけた。「よし、お前に申し訳ないという気持ちがあるなら、別の形で返してもらおうか。」「別の形?」「俺はさ、大切な、お気に入りのマンガをお前に取られちゃって悲しいわけ。もし詫びるなら、お前のお気に入りを代わりによこせよ。」「別のマンガってこと?」「マンガでも映画でもCDでも、なんでもいいよ。俺の知らない傑作を持ってこい。つまらないのや半端なのをよこしたら許さないからよく選べよ。」彼は消え入るような声で「うん、わかった。」と応じた。
後日、彼はうちにやってきて太宰の短編集を僕に差し出した。「マンガ本を何冊もやったのに、お返しは文庫本1冊かよ、ふざけるな。」となじったが「畜犬談」というエピソードが秀逸だったので許した。こんなにひどい仕打ちをしたのに、彼は心が広いのか、それともただ根が脳天気なのか、いまだに僕と仲良くしてくれている。そして僕はいまでもときどき無性に彼を虐めたくなる。本当にごめんなさい。
僕が自動車の運転免許を取ったのは大学4年のとき、ずいぶん遅かった。車は大好きだけど維持するだけの金はないし、移動はオートバイでできるので必要に迫られなかった。面倒なことは先延ばしにするたちなのも手伝って、学生時代をだらだらと過ごしていた。
夏休みのある日、免許証をもらってすぐ友だちに連絡すると、ドライブにいこうと誘われた。実家の車で夕方藤沢に迎えにいき、134号線、鎌倉街道、16号線を通って本牧まで走る。一服しようとムーンカフェに入った。ハンバーガーやロコモコが美味しいアメリカンな雰囲気の店で、僕たちは当時よく長居をしていた。ソファに座るとすぐ、友だちは「バドワイザー、2つ。」と注文した。僕が「いや、運転…」といいかけるのを遮って彼は宣言した。「いまから酒気帯び教習を始めるぞ。」
大きな荷物を運ぶとき、みんなで旅行にいくとき、いつも運転は友だち任せにしていた。免許がないのをいいことに僕は常に助手席でふんぞり返っていた。彼にしてみればいい気はしないだろう。「いままで俺に運転させてた分、これからはがんばってもらわないとな。この日がくるのを待ってたよ。」不敵に笑っていう。そして「まずは一番しんどい酔っぱらい運転をマスターしてもらおうか。」と。当時は飲酒運転に対する世間の考えがいまよりもずいぶん甘かったように思う。当然禁止されてはいたが罰則はいまよりずっと緩く、少しだけなら大丈夫とか、お巡りさんに見つからなければ問題ないといった風潮があった。軽薄な学生だけでなく立派な大人たちもこの調子で気軽に飲酒運転をしていた。これまで散々、飲んだあと酔っぱらったままの友だちに車で送らせていたので、酔っぱらい運転を練習しろという彼の命に従った。
バドワイザーを飲み終え店を出て「どこにいく?」というと「次はエースカフェだな。」と返ってきた。英国車専門のオートバイ屋がやっている店だ。恐る恐る「ギネス、ですか?」と聞くと「おう。」と簡潔な答え。「酒気帯び教習」は一杯で終わりじゃないようだ。本牧から桜木町のエースカフェまで運転し、そこでギネスを飲み、そのあと腹が減ったと中華街まで戻り、食事をしながら青島啤酒を飲んだ。ここでようやく教習は終了、ほろ酔いで帰路についた。もちろん車を運転して。
免許取得の当日にこんなことをするくらいだ。飲酒運転に抵抗感や嫌悪感なんて抱くはずがない。それどころかしたたかに飲んで運転している途中に気分が悪くなり、信号待ちの間にドアを開け、交差点の真ん中に呕吐してすぐまた走り出した、なんてエピソードを武勇伝を語るかのごとく自慢げに話す始末だった。
いま考えるとぞっとする。僕が一度も人を撥ねずにこれたのは運転が上手かったからじゃない。 たとえ運転技術を鍛え抜いたF1のトップレーサーでも、酒に酔って車に乗れば判断や操作を誤って事故を起こす。凡人の僕が飲んで運転をして、事故を起こさない方がおかしい。誰も傷つけずに済んだのは奇跡といっていい。飲んだら乗るな。本当にごめんなさい。
大阪に友だちを尋ねた。どこで待ち合わせようかメールで相談しているときに「なにが食べたい?」と聞かれた。たこ焼きや串カツ、うどんすきにはりはり鍋、食べたいものはいくらでもある。ひとつに決められないので「地元の人じゃないと知らないような店にいきたい。」と要望すると、天王寺駅にくるように指示された。夕方に落ち合って動物園の脇を抜け、通天閣を横目に見てジャンジャン横町にやってきた。薄暗く道幅の狭いアーケード街に入ると、昔ながらの古びた店が軒を連ねている。パチンコ屋、喫茶店、立ち飲み屋、スナック、スーパー玉出。どこもほんのちょっといかがわしい雰囲気で、旅行者がふらり入るにはかなり勇気がいるような構えの店ばかりだ。異国にきたような感覚になり、気分が高揚する。友だちは僕の希望をよく理解していて、僕に好きな店を選ばせてそこで一杯やろうといった。
串カツやお好み焼きといった大阪らしい料理を看板にする店はたくさんあったが、飾り気のない縄暖簾に惹かれて、コの字のカウンターに座席が12ほどの小さな居酒屋に入った。木目プリントの黄色いベニヤ壁と蛍光灯、14型のブラウン管テレビ。地元の人と思しき先客で席の半分が埋まっていた。カウンターの隅に座りビールの大瓶とつまみをいくつか頼む。切り盛りする初老の夫婦がてきぱきと皿を出してくれた。どれも地味な見た目だが味は抜群にいい。特にだし巻き玉子はすばらしかった。手際よく巻かれた玉子を皿にのせ、花柄の魔法瓶に入っただし汁を上からたっぷりかける。だし風味の玉子ではなく玉子風味のだしを食べるのだ。
はじめは「ちょっとずつ飲んであちこち梯子しよう。」なんていっていたが、この家の料理があまりに美味くてすっかり根を生やしてしまった。腹が落ち着き酒も回っていい気持ちだ。終電まで時間はあるが満腹なのでこれから二件目という気分じゃない。さて、このあとはどうしようか。友だちが「飛田新地にいってみる?」といった。
かつての遊郭、赤線だ。いまは料亭として営業しているが実際には昔と変わらぬ遊び場で、150軒あまりの「料亭」がひしめく日本屈指の社交街らしい。話には聞いたことがある。何年か前にSHINGO★西成というラッパーが当地をテーマにした曲を書き、そのミュージックビデオがユーチューブにポストされた。ビデオには、撮影が御法度とされる飛田新地の街並がつぶさに映し出されていて、当時ちょっとした話題になった。横浜の黄金町、大岡川沿いのように猥雑な雰囲気を想像していた僕にとって、整然としてノスタルジックな風情の料亭街は予想外で興味深かった。小心者の僕はこれまでそういった場所で遊んだことはないし、たぶんこれからも遊ぶことはないだろう。でも街の空気感は味わってみたい。
「見るだけでも平気?」と友だちに聞いた。この手の街で冷やかし客は歓迎されないはずだ。彼は「通るくらいなら全然問題ないよ。でもどうせなら店に入りゃいいのに。」という。僕が口ごもっていると彼は突然「何野何子って知ってる?」と尋ねてきた。「や、わからないな。」「ほら、ちょっと前に人気だったアダルト女優だよ。脚が長くて美人で、ショートカットの。ほら。」彼はうれしそうにアダルト女優の説明を始めた。曰くその女優が飛田新地の料亭にいて、ほかの嬢と同じようにお手合わせ願えるのだという。「ふうん、そうなんだ。」僕が気のない返事をすると、彼の弁はさらに熱気を帯びる。「ええ!なんとも思わないの?エロビデオの女優とできるんだよ!すごくない?」「ああ、すごい、ね。」彼は僕が食いつかないのを納得できない。携帯電話のインターネットで画像検索をし、「ほらほら、この娘!」と写真をいくつも見せてくれた。しかし温度差は広がるばかりだ。僕はそろそろ話題を変えたかったので「俺さ、あんまりエロビデオって観ないんだよね。」といって切り上げた。彼は「なんだよう、つまんないなあ。」と不服そうだ。
隣には新聞を片手に明日の競馬の予想をするおじさんが座り、ひとり燗をすすっている。向かいでは仕事帰りと見受ける男女が親しく酒を酌み交わしている。地元の人たちの安らぎの場であるこのカウンターで、アダルト女優について大きな声で語るのが恥ずかしく、友だちに素っ気なく接してしまった。だがしかし、なにを隠そう僕は彼女のファンだった。ひとり寂しい夜、幾度となく彼女に慰みを得ていた。だから飛田新地で会えるかも知れないと聞いて僕の心中はおおいに乱れた。ときめき心が弾んだ。なのに人目を気にして格好をつけ、知らぬ振りを決め込んで友だちを裏切ったのだ。最初にそんな風に振る舞ったので引っ込みがつかず最後まで無関心を装い、挙げ句の果てにはエロビデオなんて観ないなどという大嘘までついてしまった。本当にごめんなさい。
「全能の神と兄弟の皆さんに告白します。わたしは思い、ことば、行ない、怠りによってたびたび罪を犯しました。聖母マリア、すべての天使と聖人、そして兄弟の皆さん、罪深いわたしのために神に祈ってください。」
猫も杓子もエヴァンゲリオン、という時期に僕も熱狂した。ビデオを繰り返し観て、プラモデルを組み立て、ガチャガチャを集めた。1、2年してブームが落ち着くと、手当り次第におもちゃをほしがることはなくなったが、貞本エヴァと通称される連載マンガの単行本を、発売当日に買い求めるくらいの熱量は保っていた。
あるときエヴァンゲリオンを観ていない友だちに、魅力はなにかと尋ねられた。流行が収まりエヴァについて話すことが少なくなっていたし、ほろ酔いだったのもあってひさしぶりに熱く語った。そして観ていない奴は馬鹿だといわんばかりに捲し立て、とにかく観るべきだと猛烈に勧めた。もともとアニメやマンガが嫌いじゃない彼はさっそく観たようで、すぐに面白かったと感想が返ってきた。いまも連載中のマンガがある、単行本は全部持っている、と僕がいうと、彼はぜひ貸してほしいと身を乗り出した。自分の好きな作品に興味を示されれば、悪い気はしない。5巻だか6巻だかまで出ていた単行本を、まとめて彼に貸した。
それから数ヶ月、待てど暮らせど単行本は返ってこない。早く返せよと何度か催促したが彼はのらりくらりとするばかり、単に返すのが億劫なのか、コーヒーでもこぼして返すに返せないのか、とにかく戻ってこなかった。よくある話だ。僕も借りたものを返すのが面倒でほったらかしにしてしまった経験はあるので、彼の気持ちがわからないではない。時間が経てば経つほどなんだか気まずく、返しにくいのだろう。しかし気に入りのマンガを、そのままにしておくのは面白くない。彼は近所に住んでいた。アパートにいるのを見計らって、取り返しにいけばことは簡単に解決するだろう。でも僕が赴くのではなく、彼が返しにくるのが筋じゃないか。取りにいってしまっては僕の負けのような気がする。本来は勝ちも負けもないはずなのに、僕は勝手に我慢比べを始めていた。この勝負を制したい。そしていつの頃からか、僕をやきもきさせた彼を、どうにかして懲らしめてやりたいと思うようになっていた。
最新刊の発売日、僕は貸している分も改めて全巻買い直した。そしてこの日から、彼に早く返せとせっつくのをやめた。
それからまたしばらくして、飲んでいるときに彼が「そういえば、エヴァを返さないとね。」といった。僕はこの瞬間を待ち構えていた。静かな湖面に釣り糸を垂らして、じっと待っていた。ようやく獲物が掛かったのだ。うれしさのあまり声がうわずりそうなのを必死でこらえ、努めて普段通りのトーンで答えた。「ああ、あれ、もう返さなくていいよ。」彼は僕のことばが飲み込めなくて、きょとんとしている。僕は「新しく買ったからもういいよ。貸してるやつはいらないからお前にやるよ。」と付け足した。彼はまだ混乱している。「え…、買い直したの?」「うん、うちに全巻揃ってるよ。だから返さなくていい。うまくやったな、借りパク成功じゃん。」「いや、そんなつもりは…。」彼の顔色がどんどん悪くなるが快感だった。僕は声の調子をひとつ下げ、淡々と詰め寄る。「やるっていってんだから貰えよ。」「でも、貰うのは、さすがに、悪いよ。」「ほう、悪い?悪いと思ってるのか?」「…うん。」「借りたものを返さないのはよくないって思う?」「う、うん…ごめん。」もう完全に僕のペース、彼はしどろもどろになって、いまにも泣きだしそうだ。マンガは返ってこないが、彼を締め上げて精神的な打撃を与えることができた。僕は悦に入っていた。彼はうつむき黙っている。僕が次になにをいいだすのか、不安でおびえている様子だった。もう勝負はついている。追い打ちをかけるのは酷だ。でも彼の姿を見ていたら、もう少し意地悪をしたくなり難題を吹っかけた。「よし、お前に申し訳ないという気持ちがあるなら、別の形で返してもらおうか。」「別の形?」「俺はさ、大切な、お気に入りのマンガをお前に取られちゃって悲しいわけ。もし詫びるなら、お前のお気に入りを代わりによこせよ。」「別のマンガってこと?」「マンガでも映画でもCDでも、なんでもいいよ。俺の知らない傑作を持ってこい。つまらないのや半端なのをよこしたら許さないからよく選べよ。」彼は消え入るような声で「うん、わかった。」と応じた。
後日、彼はうちにやってきて太宰の短編集を僕に差し出した。「マンガ本を何冊もやったのに、お返しは文庫本1冊かよ、ふざけるな。」となじったが「畜犬談」というエピソードが秀逸だったので許した。こんなにひどい仕打ちをしたのに、彼は心が広いのか、それともただ根が脳天気なのか、いまだに僕と仲良くしてくれている。そして僕はいまでもときどき無性に彼を虐めたくなる。本当にごめんなさい。
僕が自動車の運転免許を取ったのは大学4年のとき、ずいぶん遅かった。車は大好きだけど維持するだけの金はないし、移動はオートバイでできるので必要に迫られなかった。面倒なことは先延ばしにするたちなのも手伝って、学生時代をだらだらと過ごしていた。
夏休みのある日、免許証をもらってすぐ友だちに連絡すると、ドライブにいこうと誘われた。実家の車で夕方藤沢に迎えにいき、134号線、鎌倉街道、16号線を通って本牧まで走る。一服しようとムーンカフェに入った。ハンバーガーやロコモコが美味しいアメリカンな雰囲気の店で、僕たちは当時よく長居をしていた。ソファに座るとすぐ、友だちは「バドワイザー、2つ。」と注文した。僕が「いや、運転…」といいかけるのを遮って彼は宣言した。「いまから酒気帯び教習を始めるぞ。」
大きな荷物を運ぶとき、みんなで旅行にいくとき、いつも運転は友だち任せにしていた。免許がないのをいいことに僕は常に助手席でふんぞり返っていた。彼にしてみればいい気はしないだろう。「いままで俺に運転させてた分、これからはがんばってもらわないとな。この日がくるのを待ってたよ。」不敵に笑っていう。そして「まずは一番しんどい酔っぱらい運転をマスターしてもらおうか。」と。当時は飲酒運転に対する世間の考えがいまよりもずいぶん甘かったように思う。当然禁止されてはいたが罰則はいまよりずっと緩く、少しだけなら大丈夫とか、お巡りさんに見つからなければ問題ないといった風潮があった。軽薄な学生だけでなく立派な大人たちもこの調子で気軽に飲酒運転をしていた。これまで散々、飲んだあと酔っぱらったままの友だちに車で送らせていたので、酔っぱらい運転を練習しろという彼の命に従った。
バドワイザーを飲み終え店を出て「どこにいく?」というと「次はエースカフェだな。」と返ってきた。英国車専門のオートバイ屋がやっている店だ。恐る恐る「ギネス、ですか?」と聞くと「おう。」と簡潔な答え。「酒気帯び教習」は一杯で終わりじゃないようだ。本牧から桜木町のエースカフェまで運転し、そこでギネスを飲み、そのあと腹が減ったと中華街まで戻り、食事をしながら青島啤酒を飲んだ。ここでようやく教習は終了、ほろ酔いで帰路についた。もちろん車を運転して。
免許取得の当日にこんなことをするくらいだ。飲酒運転に抵抗感や嫌悪感なんて抱くはずがない。それどころかしたたかに飲んで運転している途中に気分が悪くなり、信号待ちの間にドアを開け、交差点の真ん中に呕吐してすぐまた走り出した、なんてエピソードを武勇伝を語るかのごとく自慢げに話す始末だった。
いま考えるとぞっとする。僕が一度も人を撥ねずにこれたのは運転が上手かったからじゃない。 たとえ運転技術を鍛え抜いたF1のトップレーサーでも、酒に酔って車に乗れば判断や操作を誤って事故を起こす。凡人の僕が飲んで運転をして、事故を起こさない方がおかしい。誰も傷つけずに済んだのは奇跡といっていい。飲んだら乗るな。本当にごめんなさい。
大阪に友だちを尋ねた。どこで待ち合わせようかメールで相談しているときに「なにが食べたい?」と聞かれた。たこ焼きや串カツ、うどんすきにはりはり鍋、食べたいものはいくらでもある。ひとつに決められないので「地元の人じゃないと知らないような店にいきたい。」と要望すると、天王寺駅にくるように指示された。夕方に落ち合って動物園の脇を抜け、通天閣を横目に見てジャンジャン横町にやってきた。薄暗く道幅の狭いアーケード街に入ると、昔ながらの古びた店が軒を連ねている。パチンコ屋、喫茶店、立ち飲み屋、スナック、スーパー玉出。どこもほんのちょっといかがわしい雰囲気で、旅行者がふらり入るにはかなり勇気がいるような構えの店ばかりだ。異国にきたような感覚になり、気分が高揚する。友だちは僕の希望をよく理解していて、僕に好きな店を選ばせてそこで一杯やろうといった。
串カツやお好み焼きといった大阪らしい料理を看板にする店はたくさんあったが、飾り気のない縄暖簾に惹かれて、コの字のカウンターに座席が12ほどの小さな居酒屋に入った。木目プリントの黄色いベニヤ壁と蛍光灯、14型のブラウン管テレビ。地元の人と思しき先客で席の半分が埋まっていた。カウンターの隅に座りビールの大瓶とつまみをいくつか頼む。切り盛りする初老の夫婦がてきぱきと皿を出してくれた。どれも地味な見た目だが味は抜群にいい。特にだし巻き玉子はすばらしかった。手際よく巻かれた玉子を皿にのせ、花柄の魔法瓶に入っただし汁を上からたっぷりかける。だし風味の玉子ではなく玉子風味のだしを食べるのだ。
はじめは「ちょっとずつ飲んであちこち梯子しよう。」なんていっていたが、この家の料理があまりに美味くてすっかり根を生やしてしまった。腹が落ち着き酒も回っていい気持ちだ。終電まで時間はあるが満腹なのでこれから二件目という気分じゃない。さて、このあとはどうしようか。友だちが「飛田新地にいってみる?」といった。
かつての遊郭、赤線だ。いまは料亭として営業しているが実際には昔と変わらぬ遊び場で、150軒あまりの「料亭」がひしめく日本屈指の社交街らしい。話には聞いたことがある。何年か前にSHINGO★西成というラッパーが当地をテーマにした曲を書き、そのミュージックビデオがユーチューブにポストされた。ビデオには、撮影が御法度とされる飛田新地の街並がつぶさに映し出されていて、当時ちょっとした話題になった。横浜の黄金町、大岡川沿いのように猥雑な雰囲気を想像していた僕にとって、整然としてノスタルジックな風情の料亭街は予想外で興味深かった。小心者の僕はこれまでそういった場所で遊んだことはないし、たぶんこれからも遊ぶことはないだろう。でも街の空気感は味わってみたい。
「見るだけでも平気?」と友だちに聞いた。この手の街で冷やかし客は歓迎されないはずだ。彼は「通るくらいなら全然問題ないよ。でもどうせなら店に入りゃいいのに。」という。僕が口ごもっていると彼は突然「何野何子って知ってる?」と尋ねてきた。「や、わからないな。」「ほら、ちょっと前に人気だったアダルト女優だよ。脚が長くて美人で、ショートカットの。ほら。」彼はうれしそうにアダルト女優の説明を始めた。曰くその女優が飛田新地の料亭にいて、ほかの嬢と同じようにお手合わせ願えるのだという。「ふうん、そうなんだ。」僕が気のない返事をすると、彼の弁はさらに熱気を帯びる。「ええ!なんとも思わないの?エロビデオの女優とできるんだよ!すごくない?」「ああ、すごい、ね。」彼は僕が食いつかないのを納得できない。携帯電話のインターネットで画像検索をし、「ほらほら、この娘!」と写真をいくつも見せてくれた。しかし温度差は広がるばかりだ。僕はそろそろ話題を変えたかったので「俺さ、あんまりエロビデオって観ないんだよね。」といって切り上げた。彼は「なんだよう、つまんないなあ。」と不服そうだ。
隣には新聞を片手に明日の競馬の予想をするおじさんが座り、ひとり燗をすすっている。向かいでは仕事帰りと見受ける男女が親しく酒を酌み交わしている。地元の人たちの安らぎの場であるこのカウンターで、アダルト女優について大きな声で語るのが恥ずかしく、友だちに素っ気なく接してしまった。だがしかし、なにを隠そう僕は彼女のファンだった。ひとり寂しい夜、幾度となく彼女に慰みを得ていた。だから飛田新地で会えるかも知れないと聞いて僕の心中はおおいに乱れた。ときめき心が弾んだ。なのに人目を気にして格好をつけ、知らぬ振りを決め込んで友だちを裏切ったのだ。最初にそんな風に振る舞ったので引っ込みがつかず最後まで無関心を装い、挙げ句の果てにはエロビデオなんて観ないなどという大嘘までついてしまった。本当にごめんなさい。
20131106
A Day Job
実家に帰ったときのこと。夕食後に居間でぼんやりしていたら、母が「梨食べるなら剥くけど、どうする?」と僕に尋ねた。一人暮らしをしていると、果物を食べる機会は少ない。梨は魅力的だったが、僕は「あぁ、大丈夫。」と答えた。すると母から予期せぬ反応があった。「え?食べるの?食べないの?どっちよ!」さて困った。なぜ会話が成り立たないのか。きょとんとしていると、母はもう一度聞いてきた。僕が「ええと、もうすぐ友だちが迎えにきて、出かけるんだよね。だから梨はいいや。」というと「だったら最初からそういえばいいのに。」と返ってくる。「だから大丈夫っていったじゃん。」「大丈夫なんていわれたって、わかんないわよ。」
「大丈夫」が伝わらないことに驚いた。例えば「ヤバい」とか「ウザい」が親の世代に伝わらないのなら、まだわかる。でも「大丈夫」は昔から使われていることばだし、辞書にも載っている。それなのにどうして。風呂から上がってきた父に顛末を話すと「会社の若い子たちもよく『大丈夫』っていうんだけど、あれはどうもわからない。」と母に加勢した。僕が若いかどうかはさておき、親の世代と若い世代では、どうやら「大丈夫」の用法が違うらしい。
「具合はどう?」「大丈夫」 このやりとりならば両親とも納得だ。「手伝おうか?」「大丈夫」この辺りからわからなくはないが違和感があるという。そして「梨食べる?」「大丈夫」で、なにをいっているんだ、となるらしい。「大丈夫」には良好、順調といった意味合いと、断りの返事としての意味があると思っていたが、両親に後者の認識はないという。だとすると、母が僕の返事に戸惑ったのはうなずける。梨を食べるかという問いに「大丈夫」と返ってくれば「それはいいね」と肯定のことばと受け取る。でも僕の態度や雰囲気は、否定しているようにしか見えない。だから「え?食べるの?食べないの?どっちよ!」となったわけだ。
いわゆる「若者ことば」の特徴として、〜ぽい、〜みたいな、〜とか、 〜のほう、〜系といった、ぼかし表現の多用がある。断定を避け、境界を曖昧にし、遠回しに表現することで、相手を傷つけないように、あるいは自分が傷つかないようにしている。断りの返事としての「大丈夫」も、「いいえ」「結構です」「いりません」といった、直接的でつっけんどんな否定の語句よりマイルドな印象があるから、若い人が使いたがるのだろう。ぼかし表現の脈絡の中で生まれた、新しい用法のようだ。
「大丈夫」が伝わらないことに驚いた。例えば「ヤバい」とか「ウザい」が親の世代に伝わらないのなら、まだわかる。でも「大丈夫」は昔から使われていることばだし、辞書にも載っている。それなのにどうして。風呂から上がってきた父に顛末を話すと「会社の若い子たちもよく『大丈夫』っていうんだけど、あれはどうもわからない。」と母に加勢した。僕が若いかどうかはさておき、親の世代と若い世代では、どうやら「大丈夫」の用法が違うらしい。
「具合はどう?」「大丈夫」 このやりとりならば両親とも納得だ。「手伝おうか?」「大丈夫」この辺りからわからなくはないが違和感があるという。そして「梨食べる?」「大丈夫」で、なにをいっているんだ、となるらしい。「大丈夫」には良好、順調といった意味合いと、断りの返事としての意味があると思っていたが、両親に後者の認識はないという。だとすると、母が僕の返事に戸惑ったのはうなずける。梨を食べるかという問いに「大丈夫」と返ってくれば「それはいいね」と肯定のことばと受け取る。でも僕の態度や雰囲気は、否定しているようにしか見えない。だから「え?食べるの?食べないの?どっちよ!」となったわけだ。
いわゆる「若者ことば」の特徴として、〜ぽい、〜みたいな、〜とか、 〜のほう、〜系といった、ぼかし表現の多用がある。断定を避け、境界を曖昧にし、遠回しに表現することで、相手を傷つけないように、あるいは自分が傷つかないようにしている。断りの返事としての「大丈夫」も、「いいえ」「結構です」「いりません」といった、直接的でつっけんどんな否定の語句よりマイルドな印象があるから、若い人が使いたがるのだろう。ぼかし表現の脈絡の中で生まれた、新しい用法のようだ。
20131101
He's already brushed his teeth.
親戚が何人か集まって、雑談をしていた。恭一おじさんが娘の、つまり僕にとってはいとこの悠紀ちゃんの話をはじめた。「こないだご近所から梨をたくさん頂いてね…。」
ある晩、ベッドに入るまでのひととき居間でテレビを観ていたら、悠紀ちゃんが「梨食べるなら剥くけど、どうする?」と尋ねたという。おじさんは「んー…歯を磨いちゃったよ。」と答えた。つかの間の沈黙のあと、悠紀ちゃんは「で?食べるの?食べないの?どっち?」と聞き返したのだそうだ。
「いまの若い子ってのはさ、マルとかバツとか、白とか黒とか、はっきりいってやんないとわからないんだよね。行間を読むとか雰囲気を感じ取るとか、そういうのができないんだな。『歯を磨いちゃった』っていったらわかりそうなもんだけどねえ。」とおじさん。話を聞いていた伯父伯母たちは、そうだそうだ、まったく、と共感していた。その場に悠紀ちゃんがいなかったので直接聞いてはいないが、僕には彼女の気持ちが手に取るようによくわかる。
恭一おじさんは「歯なんてまた磨けばいいじゃない。一緒に食べようよ、美味しいよ。」と悠紀ちゃんにいってほしかったのだと思う。夜遅くにものを食べるのは体によくない。ここは我慢するべきだ。だが娘が強く勧めるなら断っては角が立つ、申し出を受けようじゃないか。要するに、梨を食べるための理由付けがほしかったのだ。悠紀ちゃんに背中を押してもらいたかった。だから「いや、結構。」ときっぱり断らず「歯を磨いちゃったよ。」と曖昧な返事をした。
団塊の世代が皆そうなのか知らないが、少なくともうちの親も恭一おじさんと同じように、自分の行為を正当化しようとする。ちょっと贅沢に外食するときや、不必要な買い物をするときなんかに、「せっかくお前が帰ってきたから。」「お前が良いっていったから。」と僕を出しにしたがるのだ。親が遠回しに同意を求め、背中を押してほしそうにしているときの鬱陶しさったらない。「いちいち聞くなよ。」「そんなこと自分で決めろよ。」と思うが声に出すのも億劫だ。だからわかる——悠紀ちゃんはおじさんの微妙な心境がわからなかったんじゃない。むしろ的確に見抜いていた。そしておじさんのいい訳作りに加担するのが嫌で、わざと知らぬ振りをしたのだ。「で?食べるの?食べないの?どっち?」という彼女のことばは、おじさんに対する問いかけではない。「わたしの所為にしないで。自分で決めて。」という拒絶だった。行間を読み、雰囲気を感じることができていなかったのは、悠紀ちゃんではなく恭一おじさんの方だ。
ある晩、ベッドに入るまでのひととき居間でテレビを観ていたら、悠紀ちゃんが「梨食べるなら剥くけど、どうする?」と尋ねたという。おじさんは「んー…歯を磨いちゃったよ。」と答えた。つかの間の沈黙のあと、悠紀ちゃんは「で?食べるの?食べないの?どっち?」と聞き返したのだそうだ。
「いまの若い子ってのはさ、マルとかバツとか、白とか黒とか、はっきりいってやんないとわからないんだよね。行間を読むとか雰囲気を感じ取るとか、そういうのができないんだな。『歯を磨いちゃった』っていったらわかりそうなもんだけどねえ。」とおじさん。話を聞いていた伯父伯母たちは、そうだそうだ、まったく、と共感していた。その場に悠紀ちゃんがいなかったので直接聞いてはいないが、僕には彼女の気持ちが手に取るようによくわかる。
恭一おじさんは「歯なんてまた磨けばいいじゃない。一緒に食べようよ、美味しいよ。」と悠紀ちゃんにいってほしかったのだと思う。夜遅くにものを食べるのは体によくない。ここは我慢するべきだ。だが娘が強く勧めるなら断っては角が立つ、申し出を受けようじゃないか。要するに、梨を食べるための理由付けがほしかったのだ。悠紀ちゃんに背中を押してもらいたかった。だから「いや、結構。」ときっぱり断らず「歯を磨いちゃったよ。」と曖昧な返事をした。
団塊の世代が皆そうなのか知らないが、少なくともうちの親も恭一おじさんと同じように、自分の行為を正当化しようとする。ちょっと贅沢に外食するときや、不必要な買い物をするときなんかに、「せっかくお前が帰ってきたから。」「お前が良いっていったから。」と僕を出しにしたがるのだ。親が遠回しに同意を求め、背中を押してほしそうにしているときの鬱陶しさったらない。「いちいち聞くなよ。」「そんなこと自分で決めろよ。」と思うが声に出すのも億劫だ。だからわかる——悠紀ちゃんはおじさんの微妙な心境がわからなかったんじゃない。むしろ的確に見抜いていた。そしておじさんのいい訳作りに加担するのが嫌で、わざと知らぬ振りをしたのだ。「で?食べるの?食べないの?どっち?」という彼女のことばは、おじさんに対する問いかけではない。「わたしの所為にしないで。自分で決めて。」という拒絶だった。行間を読み、雰囲気を感じることができていなかったのは、悠紀ちゃんではなく恭一おじさんの方だ。
20131030
Tracing
15年ぶりにバンコクを旅したという記事が、友だちのブログにポストされていた。ひさしぶりに訪れた街は、印象があまりにも変わっていてしっくりこなかったようだ。「グレーな街並みは東京のようで、夜のにおいまでもが夏の東京のにおいのよう。」「大都市というのはどこでもどんどんその個性を失って似てきてしまうのだろうか?」
かつてのタイ旅行を思い出した。夜の空港に降り立つと、亜熱帯特有の粘った空気にむせる。路線バスに乗ってバンコクの中心部までやってきて、カオサン通りで安い宿を探すがどこもいっぱい。途方に暮れた。重たいリュックを背負ったまま、汗と埃にまみれて歩き回り、どうにか寝床を確保したのは夜中だった。荷物を下ろすと疲れが溢れ出す。そのままベッドに倒れ込みたくもあったが、それ以上に腹が減っていた。根を生やしてはいけないと、慌てて部屋を飛び出す。広い十字路の角に屋台があり、特大の寸胴鍋に粥が炊かれていた。鶏の出汁の匂いが腹ペコの食欲中枢を刺激する。ほとんど反射的にその粥を注文した。お姉さんが丼に粥をなみなみ注ぎ、そこに生卵を落としてくれた。この熱々の粥の美味いこと!汗と鼻水は垂れ流しにして、ひと息にかき込んだ。
ときが経てば街は変わる。またバンコクにいっても、あの粥を味わうことはできないかもしれないなと、友だちのブログを読んで少し寂しい気持ちになった。
旅行した場所に順番をつけることなんてできない。でもシチリアは、とりわけ学生時代に二度続けていったパレルモは、僕にとって特別だ。初めての一人旅でサイレンの鳴り止まぬ夜道に恐怖し、一生忘れられない美食の数々に毎日驚き、昼寝をしていた公園で出会った年上の日本人女性に恋をし、ともに旅をする友だちと宿のベランダで夜風にあたり、ワインをラッパ飲みした記憶は、いまや僕の血や骨といっていい。
先月そのパレルモを三たび訪れた。十数年ぶりだ。手はじめに国鉄の駅に向かった。この駅から旅をスタートさせたかった。僕の頭の中にある街の地図は、駅を中心に描かれていて、だから駅にいけば土地勘が甦って、どこにでも不自由なくいける気がしたからだ。駅は変わっていなかった。列車の行き先や発車時刻を知らせる掲示板こそ電子式の真新しいものになっていたが、コンコースやプラットホーム、券売所は昔のままだ。それだけじゃない、キオスクの匂い、シチリア訛りの構内アナウンス、トイレの薄暗さまでもが当時と一緒だった。懐かしい。駅から頭の地図を頼りに西へ歩き、市場にいった。ここも昔と変わらない。色鮮やかな野菜や果物が山と積まれ、大きなカジキマグロが氷の上に鎮座し、「肉とは獣の屍である」ということがよくわかる形の肉がずらり吊るされている。市場のあとは旧市街を散策し、気に入りの教会を巡る。どこも変わっていない。懐かしい、懐かしい。
ひとしきり思い出の地を歩いたあと、一服しようとバールに寄った。絞りたてのオレンジジュースを飲みながら、 今朝から心の隅にくすぶっている感情と向き合わなければ、と考えていた。僕はパレルモを物足りなく感じていたのだ。いや、決してつまらなくはない、駅も市場も旧市街もとても楽しい。すっかり忘れていた過去の旅の記憶がここに来て次々に思い出され、感動さえしている。でも身震いするような高揚がないのだ。あんなに大好きで再訪を心待ちにしていたパレルモを、物足りないと感じてしまうことが悲しかった。 友だちのブログ記事を思い返す。彼女はバンコクの変わりように、ある種の喪失感を抱いていたのだと思う。僕はいま、昔となにも変わっていないパレルモで、バンコクの彼女と似た気持ちになっている。なぜか。
変わったのは僕だ。成長したのか衰えたのか、とにかく十数年前の僕とは違っている。 だからあのときといまと、同じ街を歩いても感じ方が違うのは当然。でも僕は無意識に、かつての目くるめく体験を反芻し、興奮をなぞろうとしていたのだと思う。そしてそれをできないでいることが悲しかったのだ。喪失感や寂寥感は、パレルモにではなく僕自身に対するものだった。
昔の旅を追いかけている限り、僕は満たされないだろう。早く心持ちを入れ替えた方がよさそうだ。でもその前に、もうひとつ過去をなぞりたい場所があった。トラットリア・アンタリア。国鉄駅のほど近く、ローマ通りから少しそれたところにある食堂だ。4人掛けのテーブルが4、5脚ほどの、洒落っ気のないこぢんまりとした店で、料理がどれも抜群に美味い。初めてパレルモに来たときに、ふらり入って衝撃的な味に惚れ、以来何度となく足を運んだ。あそこで食事をすれば、かつての興奮をもう一度味わえるに違いない。 オレンジジュースの支払いをして、アンタリアに向かうことにした。頭の中の地図にはしっかりとピンが打たれている。脇目を振らずに歩いた。店の前に着くと、扉は閉ざされ大きな南京錠が掛けられていた。どうも今日だけ閉まっているという風情ではない。扉には短い文と電話番号が書かれたプレートが貼られている。イタリア語はわからないが、意味はわかった。「貸店舗」と書かれているのだ。アンタリアは潰れていた。
頭の中が真っ白になり、しばらく扉の前で立ち尽くした。あの味に出会うことは二度とない。あの感動はもう戻ってこないのだ。絶望した。しかし反面、潰れているとわかった直後から少し心が軽い。もう昔の足取りをたどらなくていい。僕は自由だ。いい旅になりそうな予感がする。
かつてのタイ旅行を思い出した。夜の空港に降り立つと、亜熱帯特有の粘った空気にむせる。路線バスに乗ってバンコクの中心部までやってきて、カオサン通りで安い宿を探すがどこもいっぱい。途方に暮れた。重たいリュックを背負ったまま、汗と埃にまみれて歩き回り、どうにか寝床を確保したのは夜中だった。荷物を下ろすと疲れが溢れ出す。そのままベッドに倒れ込みたくもあったが、それ以上に腹が減っていた。根を生やしてはいけないと、慌てて部屋を飛び出す。広い十字路の角に屋台があり、特大の寸胴鍋に粥が炊かれていた。鶏の出汁の匂いが腹ペコの食欲中枢を刺激する。ほとんど反射的にその粥を注文した。お姉さんが丼に粥をなみなみ注ぎ、そこに生卵を落としてくれた。この熱々の粥の美味いこと!汗と鼻水は垂れ流しにして、ひと息にかき込んだ。
ときが経てば街は変わる。またバンコクにいっても、あの粥を味わうことはできないかもしれないなと、友だちのブログを読んで少し寂しい気持ちになった。
旅行した場所に順番をつけることなんてできない。でもシチリアは、とりわけ学生時代に二度続けていったパレルモは、僕にとって特別だ。初めての一人旅でサイレンの鳴り止まぬ夜道に恐怖し、一生忘れられない美食の数々に毎日驚き、昼寝をしていた公園で出会った年上の日本人女性に恋をし、ともに旅をする友だちと宿のベランダで夜風にあたり、ワインをラッパ飲みした記憶は、いまや僕の血や骨といっていい。
先月そのパレルモを三たび訪れた。十数年ぶりだ。手はじめに国鉄の駅に向かった。この駅から旅をスタートさせたかった。僕の頭の中にある街の地図は、駅を中心に描かれていて、だから駅にいけば土地勘が甦って、どこにでも不自由なくいける気がしたからだ。駅は変わっていなかった。列車の行き先や発車時刻を知らせる掲示板こそ電子式の真新しいものになっていたが、コンコースやプラットホーム、券売所は昔のままだ。それだけじゃない、キオスクの匂い、シチリア訛りの構内アナウンス、トイレの薄暗さまでもが当時と一緒だった。懐かしい。駅から頭の地図を頼りに西へ歩き、市場にいった。ここも昔と変わらない。色鮮やかな野菜や果物が山と積まれ、大きなカジキマグロが氷の上に鎮座し、「肉とは獣の屍である」ということがよくわかる形の肉がずらり吊るされている。市場のあとは旧市街を散策し、気に入りの教会を巡る。どこも変わっていない。懐かしい、懐かしい。
ひとしきり思い出の地を歩いたあと、一服しようとバールに寄った。絞りたてのオレンジジュースを飲みながら、 今朝から心の隅にくすぶっている感情と向き合わなければ、と考えていた。僕はパレルモを物足りなく感じていたのだ。いや、決してつまらなくはない、駅も市場も旧市街もとても楽しい。すっかり忘れていた過去の旅の記憶がここに来て次々に思い出され、感動さえしている。でも身震いするような高揚がないのだ。あんなに大好きで再訪を心待ちにしていたパレルモを、物足りないと感じてしまうことが悲しかった。 友だちのブログ記事を思い返す。彼女はバンコクの変わりように、ある種の喪失感を抱いていたのだと思う。僕はいま、昔となにも変わっていないパレルモで、バンコクの彼女と似た気持ちになっている。なぜか。
変わったのは僕だ。成長したのか衰えたのか、とにかく十数年前の僕とは違っている。 だからあのときといまと、同じ街を歩いても感じ方が違うのは当然。でも僕は無意識に、かつての目くるめく体験を反芻し、興奮をなぞろうとしていたのだと思う。そしてそれをできないでいることが悲しかったのだ。喪失感や寂寥感は、パレルモにではなく僕自身に対するものだった。
昔の旅を追いかけている限り、僕は満たされないだろう。早く心持ちを入れ替えた方がよさそうだ。でもその前に、もうひとつ過去をなぞりたい場所があった。トラットリア・アンタリア。国鉄駅のほど近く、ローマ通りから少しそれたところにある食堂だ。4人掛けのテーブルが4、5脚ほどの、洒落っ気のないこぢんまりとした店で、料理がどれも抜群に美味い。初めてパレルモに来たときに、ふらり入って衝撃的な味に惚れ、以来何度となく足を運んだ。あそこで食事をすれば、かつての興奮をもう一度味わえるに違いない。 オレンジジュースの支払いをして、アンタリアに向かうことにした。頭の中の地図にはしっかりとピンが打たれている。脇目を振らずに歩いた。店の前に着くと、扉は閉ざされ大きな南京錠が掛けられていた。どうも今日だけ閉まっているという風情ではない。扉には短い文と電話番号が書かれたプレートが貼られている。イタリア語はわからないが、意味はわかった。「貸店舗」と書かれているのだ。アンタリアは潰れていた。
頭の中が真っ白になり、しばらく扉の前で立ち尽くした。あの味に出会うことは二度とない。あの感動はもう戻ってこないのだ。絶望した。しかし反面、潰れているとわかった直後から少し心が軽い。もう昔の足取りをたどらなくていい。僕は自由だ。いい旅になりそうな予感がする。
20131024
The Libatape
患者に「リバテープちょうだい。」といわれた。リバテープ…。わからなかったので聞き返すと「カミソリに負けて血が出たからリバテープちょうだい、小さいのがいいよ。」と戻ってきた。なんのことだろう。ナースステーションに戻って同僚に「リバテープってわかる?」と聞くと、変な顔をされた。僕が困っていると、同僚は面倒くさそうに包交車から絆創膏を出して僕によこした。「え?これバンドエイドじゃん。」というと、同僚はまた訝しげな顔をしてどこかへいってしまった。なにがなんだかさっぱりだ。
北海道出身の先輩に聞いて謎が解けた。僕はまったく知らなかったのだが、絆創膏は地域によって呼び方が違うのだそうだ。神奈川出身の僕がバンドエイドと呼ぶそれを、沖縄ではリバテープというらしい。戻ってきたさっきの同僚にことの次第を話した。沖縄出身の彼女もまた、絆創膏の呼び名が地域で変わることを知らず、だから僕が「リバテープ」を認識しないなんて、露も思わなかったという。そして僕がバンドエイドといったのを聞いて、お前はなにを気取っているんだ、と思ったそうだ。沖縄人は「バンドエイド」という響きに、えらく格好を付けた印象を受けるのだと。どうりで話が噛み合なかったわけだと笑っていると、先輩が「北海道ではサビオっていうんだよ。」と教えてくれた。
絆創膏のことをカットバンと呼ぶ看護師や医師は多い。いまいる病院でもそうだし、以前いた横浜でもそうだった。看護学生時代に実習でいったあちこちの病院でもよく耳にした。思い返せば小学校の保健室の先生も、カットバンといっていた。医療従事者以外の人がカットバンと呼ぶのを、僕は聞いたことがない。だから「カットバン」というのは専門用語なのか符丁なのか、なんにせよ医療界特有の言い回しだと思っていた。でもいまとなっては、そうともいい切れない気がしている。絆創膏のことを、誰もがカットバンと呼ぶ地域があってもおかしくはない。
北海道出身の先輩に聞いて謎が解けた。僕はまったく知らなかったのだが、絆創膏は地域によって呼び方が違うのだそうだ。神奈川出身の僕がバンドエイドと呼ぶそれを、沖縄ではリバテープというらしい。戻ってきたさっきの同僚にことの次第を話した。沖縄出身の彼女もまた、絆創膏の呼び名が地域で変わることを知らず、だから僕が「リバテープ」を認識しないなんて、露も思わなかったという。そして僕がバンドエイドといったのを聞いて、お前はなにを気取っているんだ、と思ったそうだ。沖縄人は「バンドエイド」という響きに、えらく格好を付けた印象を受けるのだと。どうりで話が噛み合なかったわけだと笑っていると、先輩が「北海道ではサビオっていうんだよ。」と教えてくれた。
絆創膏のことをカットバンと呼ぶ看護師や医師は多い。いまいる病院でもそうだし、以前いた横浜でもそうだった。看護学生時代に実習でいったあちこちの病院でもよく耳にした。思い返せば小学校の保健室の先生も、カットバンといっていた。医療従事者以外の人がカットバンと呼ぶのを、僕は聞いたことがない。だから「カットバン」というのは専門用語なのか符丁なのか、なんにせよ医療界特有の言い回しだと思っていた。でもいまとなっては、そうともいい切れない気がしている。絆創膏のことを、誰もがカットバンと呼ぶ地域があってもおかしくはない。
20131023
Colors
中学時代は退屈だった。部活でスポーツに汗を流すでなく、仲間と街を徘徊して悪さをするでもなく、なにをすればいいのかわからず、ただ悶々と過ごしていた。唯一、真夜中にテレビで映画を観るのが日課だった。特段映画が好きだったわけじゃない。当時は毎日必ずどこかの局が深夜に映画を流していた。やることがなく眠たくもないので、だらだらと眺めていただけだ。単なる暇つぶしも続けていると心地よくなる。目が肥えるといってはおこがましいか。自分の嗜好が徐々にわかってきて、一丁前に作品をあれこれと評価するのが楽しくなる。「激突」「フルメタル・ジャケット」「錆びついた銃弾」「レザボア・ドッグス」、「七人の侍」や70年代量産期の深作欣次作品群を気に入っていた。
「カラーズ」も深夜放送で出会い心を奪われた作品のひとつだ。ロサンゼルスのサウスセントラルが舞台、ストリートギャングたちの抗争と、それを取り締まる制服警官の奮闘が描かれる。留置所で鉄格子の向こう側にいる敵ギャングに見得を切るチンピラの立ち振舞いや、少年たちを一列に並べて所持品検査をする警官の所作が生々しい。チカーノの話すスペイン語訛りの英語が、いかめしい雰囲気をあおる。あまり取り沙汰されることのない地味な映画だが、名作だと思う。
高校生のときだったか浪人時代だったか、いずれにせよ毎日夜中に映画を観るという習慣がなくなって久しいある日、 夕方家に帰ると居間のテレビにカラーズが映っていた。弟がレンタルビデオ屋で借りてきたのだという。弟は僕と反対に、部活に明け暮れる生活を送っていた。そんな彼がどこでこの作品を知ったのかわからないが、惹きつけられてわざわざ借りてきたことがおかしかった。血は争えない、兄弟の嗜好は似てしまうようだ。僕は「ああ、これ観た。いい映画だよ。」と無意味に兄貴風を吹かせてから、一緒にビデオを観はじめた。やがて夕飯の支度ができ、ギャングと警官たちの悶着を横目にしながら、僕と弟、母の三人で食卓を囲んだ。
そして悲劇が訪れた。黒人の男女がベッドの上で激しく交わる様が、突如映し出されたのだ。ギャング青年の背中はしっとりと汗で濡れ、その筋肉が黒く光る。渾身の力を込めて大きく何度も腰を振る。それを受けるガールフレンドは、二本の長い脚をギャングの胴にしっかり絡め、肉食獣の雄叫びの如き大声を発している。局部こそ映ってはいないが、二人とも一糸纏わぬ姿だ。僕たちは無言だった。テレビを消すことも、ビデオの停止ボタンを押すこともできず、三人はうつむき黙々と鯖の身をむしった。ひたすら時が過ぎるのを待っていた。肉欲に没頭する男女のもとに警官隊が突入すると、慌てた青年が警官の命令に反して動く。その刹那銃声が響き、あわれ青年は背後から胸を打ち抜かれて即死。かくして絶望の時は終焉した。
弟の心の声が聞こえ僕を叱責する。「おい、前に観て知ってたんだろ?だったらなんで、こんな最低の雰囲気になるのを放っておいたんだ?お母さんの顔を見ろよ。今にも死にそうじゃないか!」彼の気持ちはよくわかる。もし僕が「観たい番組がある」とかなんとかいってビデオを止めさせていれば、団欒のひとときをぶち壊すことはなかったし、母の顔から血の気が失せることはなかった。だがしかし、僕は知らなかったのだ。僕が中学時代にテレビで観たカラーズは、このシーンが丸ごとカットされていた。当然だ。テレビで放送なんて、到底できない過激な描写だった。まさかあんな場面があるなんて、僕は想像もしていなかった。止めることなどできなかった。弟に釈明したいが、今はこの話題を持ち出すべきでない。ここにいる全員が一刻も早くこの悲劇を忘れたい。なかったことにしたいのだ。
「カラーズ」も深夜放送で出会い心を奪われた作品のひとつだ。ロサンゼルスのサウスセントラルが舞台、ストリートギャングたちの抗争と、それを取り締まる制服警官の奮闘が描かれる。留置所で鉄格子の向こう側にいる敵ギャングに見得を切るチンピラの立ち振舞いや、少年たちを一列に並べて所持品検査をする警官の所作が生々しい。チカーノの話すスペイン語訛りの英語が、いかめしい雰囲気をあおる。あまり取り沙汰されることのない地味な映画だが、名作だと思う。
高校生のときだったか浪人時代だったか、いずれにせよ毎日夜中に映画を観るという習慣がなくなって久しいある日、 夕方家に帰ると居間のテレビにカラーズが映っていた。弟がレンタルビデオ屋で借りてきたのだという。弟は僕と反対に、部活に明け暮れる生活を送っていた。そんな彼がどこでこの作品を知ったのかわからないが、惹きつけられてわざわざ借りてきたことがおかしかった。血は争えない、兄弟の嗜好は似てしまうようだ。僕は「ああ、これ観た。いい映画だよ。」と無意味に兄貴風を吹かせてから、一緒にビデオを観はじめた。やがて夕飯の支度ができ、ギャングと警官たちの悶着を横目にしながら、僕と弟、母の三人で食卓を囲んだ。
そして悲劇が訪れた。黒人の男女がベッドの上で激しく交わる様が、突如映し出されたのだ。ギャング青年の背中はしっとりと汗で濡れ、その筋肉が黒く光る。渾身の力を込めて大きく何度も腰を振る。それを受けるガールフレンドは、二本の長い脚をギャングの胴にしっかり絡め、肉食獣の雄叫びの如き大声を発している。局部こそ映ってはいないが、二人とも一糸纏わぬ姿だ。僕たちは無言だった。テレビを消すことも、ビデオの停止ボタンを押すこともできず、三人はうつむき黙々と鯖の身をむしった。ひたすら時が過ぎるのを待っていた。肉欲に没頭する男女のもとに警官隊が突入すると、慌てた青年が警官の命令に反して動く。その刹那銃声が響き、あわれ青年は背後から胸を打ち抜かれて即死。かくして絶望の時は終焉した。
弟の心の声が聞こえ僕を叱責する。「おい、前に観て知ってたんだろ?だったらなんで、こんな最低の雰囲気になるのを放っておいたんだ?お母さんの顔を見ろよ。今にも死にそうじゃないか!」彼の気持ちはよくわかる。もし僕が「観たい番組がある」とかなんとかいってビデオを止めさせていれば、団欒のひとときをぶち壊すことはなかったし、母の顔から血の気が失せることはなかった。だがしかし、僕は知らなかったのだ。僕が中学時代にテレビで観たカラーズは、このシーンが丸ごとカットされていた。当然だ。テレビで放送なんて、到底できない過激な描写だった。まさかあんな場面があるなんて、僕は想像もしていなかった。止めることなどできなかった。弟に釈明したいが、今はこの話題を持ち出すべきでない。ここにいる全員が一刻も早くこの悲劇を忘れたい。なかったことにしたいのだ。
20130624
What's the purpose of your coming?
友だちが沖縄に来て、僕の家に泊まっていた。彼がいる間はなるべく一緒に過ごしたいが、ずっと仕事を休むわけにもいかない。ある晩は夜勤だったので家の合鍵を渡した。近所で適当に夕飯をすませた後は、家でDVDでも観ようかなという彼に、自分の家と思って好きに過ごせばいいと告げて出勤した。
次の日の朝、仕事を終えて戻ると彼は寝ていた。とてもいい天気だ。せっかくの沖縄でこの天気を逃してはかわいそうだと思い、声をかけたが返ってくるのはいびきばかり。真っ赤な顔をした彼は、押しても突いても起きる気配がない。そして猛烈に酒臭い。彼のことは放っておくことにして、シャワーを浴びビールを飲んで僕も寝た。
目覚めると日が暮れていた。彼はまだ寝ている。声をかけたらむくりと起き、しばらくぼんやりしたあとに突然叫んだ。「一日無駄にした!」ようやく状況がわかったらしい。南部の海沿いをドライブしようと思っていたのにと嘆く。聞けば昨晩食事をした帰り道、バーからレゲエが聞こえたので、ちょっと飲もうと店に入ったのだという。そこで見知らぬ酔っぱらいたちと仲良くなり、朝まで一緒に飲み歩いたのだそうだ。旅のいい思い出ができてよかったじゃないと励ましても、彼はドライブ、ドライブとつぶやいて肩を落とす。昼間はとても天気がよかったと伝えると、泣きそうな顔をした。
さておき腹が減ったので、夕飯を食べに出た。腹が満たされると彼の機嫌はいくぶんよくなり、家に戻って酒を飲んだらご機嫌になった。幸せそうな彼は笑顔のまま、僕よりも先に寝た。お前なにしに来たんだよ。
朝起きたら友だちからメールが届いていた。いい耳鼻科を教えてほしいと。 どういうことだ。沖縄が好きで何度も来ている彼女は、この日にまた来るはずだった。僕は仕事の都合がつかず、今回は会えそうにないね、という話をしていた。耳鼻科になんの用があるんだろう。どうしたの?と返信すると、熱があって喉が痛むという回答。羽田にいて、もうすぐ搭乗するところだった。耳鼻科は那覇に着いてから空港の案内所で聞いてはどうか、と送って出勤した。
昼前に心配になって電話をかけた。空港近くの医院で診てもらったら、熱は40℃近くあり、扁桃腺炎と診断されて入院を強く勧められたという。知らないところに入院するのは不安だから、僕の病院に入れてほしいと頼まれた。そばにいた内科医に相談すると、すぐに来させろといってくれた。昼過ぎにやってきた彼女は思った以上に悪かった。頬がこけて目がくぼみ、死人のような顔だ。扁桃腺が大きく腫れて、ライトで照らしても喉の奥が見えない。あと少し腫れたら気道が塞がれて窒息する。血液検査の結果も悪く、いつショックを起こしてもおかしくないという状態。即入院になった。
点滴を受けて翌日には熱が落ち着き、顔色もよくなった。忙しいのに世話を焼かせやがって、となじったら「えー、だってぇー。」と返ってきた。よしよし、いつもの調子だ。その次の日にはもっとよくなり、暇だといってあちこちうろついていた。職場の入院患者と友だちが同じ空間にいる光景は変な感じだ。90過ぎのおじいちゃんと彼女が肩を並べて談話スペースのソファに座り、そろって口を開け、ぼんやり海を眺めているのを、笑わずにはいられなかった。
やがて扁桃腺の腫れが引き、痛みも和らいだ。本当はもっと炎症がよくなってから帰したいんだけど、とぼやきながら、主治医は彼女がもともと予約していた飛行機で帰れるように、早めに退院を許してくれた。かくして友だちは沖縄に来てすぐ入院し、退院してすぐ横浜に帰った。お前なにしに来たんだよ。
友だちが出張で沖縄に来た。帰りの切符の日付を後にずらし、休暇をとって数日こちらで過ごすのだそうだ。出張のあとに遊ばせてくれるなんていい会社じゃないか。仕事が片付いてから帰るまでの間、僕の家に泊めろという。断る理由はない。
夕方に待ち合わせて食事にいくことにした。 教科書通りの沖縄料理は仕事先のひとにご馳走になった、地元のひとが集まる店で食べたい、というので城間の「ピザハウス」にステーキを食べにいった。仕事から解放された彼は終始冗舌だった。食事を終えて家に来てからも酒を飲みながらしゃべり続けた。彼は都心で働くサラリーマン。結婚していて郊外にマンションを買ったばかりだ。その上奥さんはお腹が大きい。僕には想像できないほどの重責を背負って生きているはずだ。日常のストレスをつかの間忘れて、バカンス気分に浸りたいのだろう。高揚している彼がちょっとだけ鬱陶しく、翌朝は仕事なので早く寝たくもあったがおしゃべりにつきあった。
彼はインターネットで検索しながら、この休暇の計画を練りはじめた。美ら海にいきたい、斎場御嶽が魅力、海中道路もいい。ソーキそばが食べたい、タコライスも捨てがたい、A&Wはどうだ。候補ばかりがどんどん増えて、酔っぱらった彼の頭では収拾がつかなくなっていた。丑三つ時を迎えいよいよ眠たい僕は、話を切り上げようとひとつの提案をした。一番いきたい場所、一番やりたいことから順に潰していってはどうか。これは僕が旅行をするときにとる方法だ。旅はなにが起きるかわからない。計画通りに運ばないなんてことはざらだ。やりたいことを旅の後半にとっておくと、達成できないまま旅が終わって悔いが残ることがある。だから最初にピークが訪れるような計画がいい。「あの場所で旅のフィナーレを飾ろう」とか「美味しいものは最後にとっておこう」なんてやり方はよくない。彼はうんうん、なるほどと納得した様子で候補に順番をつけはじめた。ところがこれもなかなか定まらない。彼がおとなしくなるのはまだずいぶん先になりそうだ。僕は安眠をあきらめた。
翌朝僕は彼を起こさないようにそっと身支度をして仕事に出かけた。夕方に帰りしばらくすると彼も戻ってきた。充実した一日を過ごせたようでつやつやとした満面の笑顔だった。きょうは結局どこにいったの?と聞くと彼は元気いっぱいに答えた。「ソープランド!」お前なにしに来たんだよ。
次の日の朝、仕事を終えて戻ると彼は寝ていた。とてもいい天気だ。せっかくの沖縄でこの天気を逃してはかわいそうだと思い、声をかけたが返ってくるのはいびきばかり。真っ赤な顔をした彼は、押しても突いても起きる気配がない。そして猛烈に酒臭い。彼のことは放っておくことにして、シャワーを浴びビールを飲んで僕も寝た。
目覚めると日が暮れていた。彼はまだ寝ている。声をかけたらむくりと起き、しばらくぼんやりしたあとに突然叫んだ。「一日無駄にした!」ようやく状況がわかったらしい。南部の海沿いをドライブしようと思っていたのにと嘆く。聞けば昨晩食事をした帰り道、バーからレゲエが聞こえたので、ちょっと飲もうと店に入ったのだという。そこで見知らぬ酔っぱらいたちと仲良くなり、朝まで一緒に飲み歩いたのだそうだ。旅のいい思い出ができてよかったじゃないと励ましても、彼はドライブ、ドライブとつぶやいて肩を落とす。昼間はとても天気がよかったと伝えると、泣きそうな顔をした。
さておき腹が減ったので、夕飯を食べに出た。腹が満たされると彼の機嫌はいくぶんよくなり、家に戻って酒を飲んだらご機嫌になった。幸せそうな彼は笑顔のまま、僕よりも先に寝た。お前なにしに来たんだよ。
朝起きたら友だちからメールが届いていた。いい耳鼻科を教えてほしいと。 どういうことだ。沖縄が好きで何度も来ている彼女は、この日にまた来るはずだった。僕は仕事の都合がつかず、今回は会えそうにないね、という話をしていた。耳鼻科になんの用があるんだろう。どうしたの?と返信すると、熱があって喉が痛むという回答。羽田にいて、もうすぐ搭乗するところだった。耳鼻科は那覇に着いてから空港の案内所で聞いてはどうか、と送って出勤した。
昼前に心配になって電話をかけた。空港近くの医院で診てもらったら、熱は40℃近くあり、扁桃腺炎と診断されて入院を強く勧められたという。知らないところに入院するのは不安だから、僕の病院に入れてほしいと頼まれた。そばにいた内科医に相談すると、すぐに来させろといってくれた。昼過ぎにやってきた彼女は思った以上に悪かった。頬がこけて目がくぼみ、死人のような顔だ。扁桃腺が大きく腫れて、ライトで照らしても喉の奥が見えない。あと少し腫れたら気道が塞がれて窒息する。血液検査の結果も悪く、いつショックを起こしてもおかしくないという状態。即入院になった。
点滴を受けて翌日には熱が落ち着き、顔色もよくなった。忙しいのに世話を焼かせやがって、となじったら「えー、だってぇー。」と返ってきた。よしよし、いつもの調子だ。その次の日にはもっとよくなり、暇だといってあちこちうろついていた。職場の入院患者と友だちが同じ空間にいる光景は変な感じだ。90過ぎのおじいちゃんと彼女が肩を並べて談話スペースのソファに座り、そろって口を開け、ぼんやり海を眺めているのを、笑わずにはいられなかった。
やがて扁桃腺の腫れが引き、痛みも和らいだ。本当はもっと炎症がよくなってから帰したいんだけど、とぼやきながら、主治医は彼女がもともと予約していた飛行機で帰れるように、早めに退院を許してくれた。かくして友だちは沖縄に来てすぐ入院し、退院してすぐ横浜に帰った。お前なにしに来たんだよ。
友だちが出張で沖縄に来た。帰りの切符の日付を後にずらし、休暇をとって数日こちらで過ごすのだそうだ。出張のあとに遊ばせてくれるなんていい会社じゃないか。仕事が片付いてから帰るまでの間、僕の家に泊めろという。断る理由はない。
夕方に待ち合わせて食事にいくことにした。 教科書通りの沖縄料理は仕事先のひとにご馳走になった、地元のひとが集まる店で食べたい、というので城間の「ピザハウス」にステーキを食べにいった。仕事から解放された彼は終始冗舌だった。食事を終えて家に来てからも酒を飲みながらしゃべり続けた。彼は都心で働くサラリーマン。結婚していて郊外にマンションを買ったばかりだ。その上奥さんはお腹が大きい。僕には想像できないほどの重責を背負って生きているはずだ。日常のストレスをつかの間忘れて、バカンス気分に浸りたいのだろう。高揚している彼がちょっとだけ鬱陶しく、翌朝は仕事なので早く寝たくもあったがおしゃべりにつきあった。
彼はインターネットで検索しながら、この休暇の計画を練りはじめた。美ら海にいきたい、斎場御嶽が魅力、海中道路もいい。ソーキそばが食べたい、タコライスも捨てがたい、A&Wはどうだ。候補ばかりがどんどん増えて、酔っぱらった彼の頭では収拾がつかなくなっていた。丑三つ時を迎えいよいよ眠たい僕は、話を切り上げようとひとつの提案をした。一番いきたい場所、一番やりたいことから順に潰していってはどうか。これは僕が旅行をするときにとる方法だ。旅はなにが起きるかわからない。計画通りに運ばないなんてことはざらだ。やりたいことを旅の後半にとっておくと、達成できないまま旅が終わって悔いが残ることがある。だから最初にピークが訪れるような計画がいい。「あの場所で旅のフィナーレを飾ろう」とか「美味しいものは最後にとっておこう」なんてやり方はよくない。彼はうんうん、なるほどと納得した様子で候補に順番をつけはじめた。ところがこれもなかなか定まらない。彼がおとなしくなるのはまだずいぶん先になりそうだ。僕は安眠をあきらめた。
翌朝僕は彼を起こさないようにそっと身支度をして仕事に出かけた。夕方に帰りしばらくすると彼も戻ってきた。充実した一日を過ごせたようでつやつやとした満面の笑顔だった。きょうは結局どこにいったの?と聞くと彼は元気いっぱいに答えた。「ソープランド!」お前なにしに来たんだよ。
20130621
The Pine Tree Mansion, at Paddies of God
帰省したときに、ひさしぶりの友だちと会うことにした。昔はよく一緒に深酒をした仲間だ、今度の再会でもぜひ飲みたい。ところがなかなか都合がつかず、会えるのは日中ということになってしまった。さて、明るいうちから酒を飲めるところは…、少し考えてひらめき、神田で会おうとメールを送った。
幼い頃、神田の交通博物館に連れていってもらうのが好きだった。本物の電車の運転席をそっくり移植したシュミレーターで運転士になりきったり、戦闘機のコックピットに入ってパイロットになりきったりできた。広大で精密なジオラマの中を走る鉄道模型を見つめていると、時間が経つのを忘れた。僕にとって夢の世界だった。
土曜日、午前中に幼稚園が終わると、そのまま父の運転する車で神田に向かう。博物館にいく前には決まって「まつや」で昼を食べた。大人の雰囲気が漂う老舗の蕎麦屋で、カレー南蛮や親子丼をひとりで全部食べきれることが当時の僕の自慢だった。自分も大人の一員のような気になれた。蕎麦打ちを見るのも楽しみだ。奥の小部屋で白い帽子に白衣、下駄履きのお兄さんが蕎麦を打っている。丸く練った生地を長い麺棒で伸ばし、粉を振って畳んでまた伸ばす。生地が薄く伸びると形を整え、板を添えて包丁で細く切る。トントントンと小気味いいリズム。丸い生地が細長い蕎麦になるまで、お兄さんの所作には一切無駄がなくスピーディだ。その手さばきがたまらなく格好良かった。
昼間に酒、と考えて「まつや」が浮かんだ。あそこにはいつも、焼き海苔や蒲鉾を肴に昼から飲んでいるおじさんたちがいたのを思い出したのだ。蕎麦屋で飲むなんて30代の僕らにはまだ早いとも思ったが、ちょっと背伸びがしたかった。
引き戸を開けて中に入ると「いらっしゃーい」と独特の節で迎えてくれる。およそ30年ぶりにやってきた思い出の店は、ずいぶん狭くなったみたいだった。それだけ僕のからだが大きくなったということか。卓と腰掛け、壁、天井、立派な柱時計はまったく変わらない。奥の蕎麦打ち場も昔のままだ。いまどき珍しくどの席でも煙草が吸えるようで、すべての卓に陶器の灰皿がすえられている。昼時は過ぎていたので混んではいない。通された席に座り、ビールの大瓶、焼き鳥、蕎麦がきを頼んだ。注文を聞くエプロン姿のお姉さんも昔と変わらない。
斜め向かいの席に、いかにもお金持ちというなりをした初老の夫婦がいた。夫が妻に蕎麦の食べ方について、講義をしているのが聞くともなく聞こえてくる。「蕎麦をつゆにじゃぶじゃぶつけるんじゃないよ、半分ほどをちょいとつけて一、気にすするのが粋なんだ。」「そんなに噛んじゃだめだ、蕎麦は喉越しが大事なのに。」美食家気取りの男性のたれる講釈が、あまりにも型通りでおかしかった。妻にしてみれば、ガミガミいわれながら食べる蕎麦は美味しくなかっただろうが。
美食家は帰り際、お姉さんに「蕎麦屋が煙草を許してはまずいんじゃないか?」と投げかけた。お姉さんが愛想笑いをしていると美食家は続ける。「煙草のせいで蕎麦の香りが…」いい終わらないうちにお姉さんが口を開いた。「あいすみません、うちは昔からこうさせてもらってまして。あいすみません。」笑顔ではあるが断固たる拒絶だった。
がらりと戸が開くと上下ジャージに草履という薄着の男性が「うー、さむさむ」と身をすくめて入ってきた。職人気質な江戸っ子という風情だ。角の席にいた別の客と顔なじみらしく、二言三言交わしてから奥の席へ向かった。男性が席に着くなり、お姉さんは銚子と猪口を差し出す。
「よお、ありがとさん。」
「どうします?」
「んー、きょうは冷えるから…」
「鍋焼き?」
「おう、それだ。うどんは柔らかくな。」
「あいよ。」
実にテンポよく簡潔なやり取りを終えると、男性は煙草に火をつけて旨そうに煙を吐き出した。それから酒を手酌し、アチチといいながら飲みはじめた。
幼い頃、神田の交通博物館に連れていってもらうのが好きだった。本物の電車の運転席をそっくり移植したシュミレーターで運転士になりきったり、戦闘機のコックピットに入ってパイロットになりきったりできた。広大で精密なジオラマの中を走る鉄道模型を見つめていると、時間が経つのを忘れた。僕にとって夢の世界だった。
土曜日、午前中に幼稚園が終わると、そのまま父の運転する車で神田に向かう。博物館にいく前には決まって「まつや」で昼を食べた。大人の雰囲気が漂う老舗の蕎麦屋で、カレー南蛮や親子丼をひとりで全部食べきれることが当時の僕の自慢だった。自分も大人の一員のような気になれた。蕎麦打ちを見るのも楽しみだ。奥の小部屋で白い帽子に白衣、下駄履きのお兄さんが蕎麦を打っている。丸く練った生地を長い麺棒で伸ばし、粉を振って畳んでまた伸ばす。生地が薄く伸びると形を整え、板を添えて包丁で細く切る。トントントンと小気味いいリズム。丸い生地が細長い蕎麦になるまで、お兄さんの所作には一切無駄がなくスピーディだ。その手さばきがたまらなく格好良かった。
昼間に酒、と考えて「まつや」が浮かんだ。あそこにはいつも、焼き海苔や蒲鉾を肴に昼から飲んでいるおじさんたちがいたのを思い出したのだ。蕎麦屋で飲むなんて30代の僕らにはまだ早いとも思ったが、ちょっと背伸びがしたかった。
引き戸を開けて中に入ると「いらっしゃーい」と独特の節で迎えてくれる。およそ30年ぶりにやってきた思い出の店は、ずいぶん狭くなったみたいだった。それだけ僕のからだが大きくなったということか。卓と腰掛け、壁、天井、立派な柱時計はまったく変わらない。奥の蕎麦打ち場も昔のままだ。いまどき珍しくどの席でも煙草が吸えるようで、すべての卓に陶器の灰皿がすえられている。昼時は過ぎていたので混んではいない。通された席に座り、ビールの大瓶、焼き鳥、蕎麦がきを頼んだ。注文を聞くエプロン姿のお姉さんも昔と変わらない。
斜め向かいの席に、いかにもお金持ちというなりをした初老の夫婦がいた。夫が妻に蕎麦の食べ方について、講義をしているのが聞くともなく聞こえてくる。「蕎麦をつゆにじゃぶじゃぶつけるんじゃないよ、半分ほどをちょいとつけて一、気にすするのが粋なんだ。」「そんなに噛んじゃだめだ、蕎麦は喉越しが大事なのに。」美食家気取りの男性のたれる講釈が、あまりにも型通りでおかしかった。妻にしてみれば、ガミガミいわれながら食べる蕎麦は美味しくなかっただろうが。
美食家は帰り際、お姉さんに「蕎麦屋が煙草を許してはまずいんじゃないか?」と投げかけた。お姉さんが愛想笑いをしていると美食家は続ける。「煙草のせいで蕎麦の香りが…」いい終わらないうちにお姉さんが口を開いた。「あいすみません、うちは昔からこうさせてもらってまして。あいすみません。」笑顔ではあるが断固たる拒絶だった。
がらりと戸が開くと上下ジャージに草履という薄着の男性が「うー、さむさむ」と身をすくめて入ってきた。職人気質な江戸っ子という風情だ。角の席にいた別の客と顔なじみらしく、二言三言交わしてから奥の席へ向かった。男性が席に着くなり、お姉さんは銚子と猪口を差し出す。
「よお、ありがとさん。」
「どうします?」
「んー、きょうは冷えるから…」
「鍋焼き?」
「おう、それだ。うどんは柔らかくな。」
「あいよ。」
実にテンポよく簡潔なやり取りを終えると、男性は煙草に火をつけて旨そうに煙を吐き出した。それから酒を手酌し、アチチといいながら飲みはじめた。
20130618
Z-MEN
キングオブコメディというお笑いコンビがおもしろい。人間離れした風貌の今野と、浪人生のように地味な出で立ちの高橋(パーケン)が演じる、常軌を逸した言動と悲哀に満ちた世界観が好きだ。台詞の言い回しや間合いを覚えるほど、彼らのコントを繰り返して観ている。何年か前に彼らがキングオブコントというコンテストで一番をとったときは、とても気分がよかった。
多くのファンと同じように、僕もはじめは今野の強烈なキャラクターに目が留まって興味を持った。そして見ているうちに高橋(パーケン)の異常性に気づき、彼にどんどん惹かれていった。隔週に配信されるニコニコ動画の番組で、彼の変人ぶりをつぶさに見ることができる。自身の身体的特徴を逆手に取った「色弱ギャグ」や、電車内での痴漢騒動、逮捕、留置、不起訴という希有な経験を踏まえた「冤罪ギャグ」がたまらない。彼の語る日常のハプニングも楽しい。極端に人見知りで凝り性で貧乏性な彼の、独特な視点で切り取られる出来事には、不幸なエピソードがとても多い。普通のひとなら何日も思い悩んでしまいそうな体験が次々に披露されるが、悲壮感がまるでなく軽快な語り口だ。あまりにさらりと話すので、聞いているこちらはフフフと笑ってしまう。彼は映画が好きなようで、端々で話に上がる。彼が話題にする作品は、どれも一般的にはさほど有名ではないように思うが、僕には共感できることが多い。僕は高橋(パーケン)と趣味が似ているみたいだ。
あるとき突然、番組で彼がももクロの話をしはじめた。ももクロのパフォーマンスを目の前で見たら、不思議と涙が溢れ幸福感に満たされたという。これまでアイドルを追いかけるどころか、好きになったことさえないという彼が、これを期に一気にのめり込んだようだ。それからは毎回のように、ライヴにいった話やももクロゆかりの地を巡礼した話を、裏返った声で熱く語る。その入れ込みようたるや凄まじく、去年の暮れに紅白出場が決まったときには、目に涙を貯め、下唇を振るわせ、息を詰まらせながら喜びを訴えていた。僕はももクロをまるで知らないのに、その情熱に圧倒されてついもらい泣きしてしまった。
僕の弟は幼い頃から音楽狂だ。 きっかけはたぶん1987年のマイケル・ジャクソン来日だと思う。横浜スタジアムでコンサートがあり、その模様がテレビ中継された。地元の小学生たちはみんなマイケルに夢中になった。僕と弟も繰り返し録画ビデオを見ながら彼を真似して、摺り足で後ずさりし、股間を握ってポウ!と奇声を上げていた。その後弟はローリング・ストーンズと出会って心酔した。彼が小学4年生のとき、ストーンズがワールドツアーで日本にやってきた。彼は貯めていたお年玉をはたいて切符を買い、お母さんに同伴をおねがいしてコンサートにいった。中学生になるとエレキギターを買って友だちとバンドを組んだ。高校ではラップやレゲエ、ブルースといった黒人のレベル音楽に傾倒した。彼らの叫びや怒りの声を腹の底で理解できるようになりたいと、大学では英語を専攻した。その後さらに生きた英語を身につけたくて、横須賀の米軍基地内に就職した。労働の対価をほとんどレコード購入にあて、ターンテーブルと楽器、レコードに埋もれた倉庫のような部屋で寝起きしていた。ずっと外国の音楽が生活の中心にあった。
今年の冬のある日、弟から電話があった。「明日そっちにいくから泊めてくれない?」彼はいつも突然遊びに来る。この前は飛行機を降り立った那覇空港ではじめて連絡をよこした。それに比べればいくぶんいい。あいにく夜勤だったので泊めてやることはできなかったが、その翌日に会う約束をした。
弟がいたく気に入っている栄町の「あだん」で島酒を飲みながら、最近聴いた音楽や観た映画の話をした。彼とはあまり仕事や日常の話をしたことがない。別に避けているつもりはないのだが、不思議と話題に上がらない。いつも音楽と映画の話ばかりだ。 ひとしきり話したあと、そういえば、と僕は弟に尋ねた。「なんで突然沖縄に来たの?」「こっちでやるライヴのチケットをオークションで安く落とせたから。いま仕事が暇でさ。」と弟。沖縄では、アメリカの有名ミュージシャンが米軍基地の慰問に来たついでに日本人向けにもライヴをする、ということが珍しくない。「誰のライヴ?」と聞くと弟は少し気恥ずかしそうにして答えた。「も、ももクロ…。」
びっくりした。弟はいつも「80年代にアメリカで生まれてマイケル・ジャクソンに熱狂したかった。70年代にジャマイカでボブ・マーリーの怒りを共感したかった。どんなに聴き込んでも、今の日本で彼らの音楽を本当に味わうことはできない。文化や背景が違いすぎる。」と音楽の同時代性について語り、リアリティを感じられないことを嘆いていた。マイケルやボブを深く愛し、とことん追求しているからこそ達した感覚なのだと思う。その弟は今、日本のアイドルに魅せられて、遠く沖縄まで来ている。いったいどういうことか。
外資系レコード店でラップ音楽のバイヤーをしている友だちに「とにかくこのビデオを観ろ。」と強引に勧められたのが、ももクロのライヴ映像だったらしい。これは、と思いすぐにライヴにいった。そのライヴで涙が止まらなくなり、以来何度も足を運んでいるという。曰く「ようやく自分の音楽に出会えた。」らしい。
黒人の音楽は自分の音楽になり得なかった、という理屈はよくわかる。でもその話の延長線上にももクロが出てきて、自分の音楽になった、というがどうもわからない。あまりに毛色が違いすぎる。僕がいうと弟は「うん、それみんなにいわれるよ。でも俺の中では繋がってるんだよね、上手くいえないけど。」と応じた。彼がももクロのどこに魅力を感じているのか、結局よくわからなかった。
ももクロと聞いてニコニコ動画の番組のことを思い出し「キングオブコメディっていうお笑いの…」といいかけるや否や、弟は「ああ、パーケンね。」と即座に返した。ももクロファンの間で彼は有名で、尊敬の的になっているらしい。彼の言動がファンの共感を得ているのだそうだ。
僕の好きなお笑い芸人が愛し、互いに影響を与え合った弟が魅了されているももクロとは、いったい何者なんだ。ちょっと興味が湧いている。でも一度足を踏み入れたらどっぷりと引き込まれてしまいそうで怖くもある。
多くのファンと同じように、僕もはじめは今野の強烈なキャラクターに目が留まって興味を持った。そして見ているうちに高橋(パーケン)の異常性に気づき、彼にどんどん惹かれていった。隔週に配信されるニコニコ動画の番組で、彼の変人ぶりをつぶさに見ることができる。自身の身体的特徴を逆手に取った「色弱ギャグ」や、電車内での痴漢騒動、逮捕、留置、不起訴という希有な経験を踏まえた「冤罪ギャグ」がたまらない。彼の語る日常のハプニングも楽しい。極端に人見知りで凝り性で貧乏性な彼の、独特な視点で切り取られる出来事には、不幸なエピソードがとても多い。普通のひとなら何日も思い悩んでしまいそうな体験が次々に披露されるが、悲壮感がまるでなく軽快な語り口だ。あまりにさらりと話すので、聞いているこちらはフフフと笑ってしまう。彼は映画が好きなようで、端々で話に上がる。彼が話題にする作品は、どれも一般的にはさほど有名ではないように思うが、僕には共感できることが多い。僕は高橋(パーケン)と趣味が似ているみたいだ。
あるとき突然、番組で彼がももクロの話をしはじめた。ももクロのパフォーマンスを目の前で見たら、不思議と涙が溢れ幸福感に満たされたという。これまでアイドルを追いかけるどころか、好きになったことさえないという彼が、これを期に一気にのめり込んだようだ。それからは毎回のように、ライヴにいった話やももクロゆかりの地を巡礼した話を、裏返った声で熱く語る。その入れ込みようたるや凄まじく、去年の暮れに紅白出場が決まったときには、目に涙を貯め、下唇を振るわせ、息を詰まらせながら喜びを訴えていた。僕はももクロをまるで知らないのに、その情熱に圧倒されてついもらい泣きしてしまった。
僕の弟は幼い頃から音楽狂だ。 きっかけはたぶん1987年のマイケル・ジャクソン来日だと思う。横浜スタジアムでコンサートがあり、その模様がテレビ中継された。地元の小学生たちはみんなマイケルに夢中になった。僕と弟も繰り返し録画ビデオを見ながら彼を真似して、摺り足で後ずさりし、股間を握ってポウ!と奇声を上げていた。その後弟はローリング・ストーンズと出会って心酔した。彼が小学4年生のとき、ストーンズがワールドツアーで日本にやってきた。彼は貯めていたお年玉をはたいて切符を買い、お母さんに同伴をおねがいしてコンサートにいった。中学生になるとエレキギターを買って友だちとバンドを組んだ。高校ではラップやレゲエ、ブルースといった黒人のレベル音楽に傾倒した。彼らの叫びや怒りの声を腹の底で理解できるようになりたいと、大学では英語を専攻した。その後さらに生きた英語を身につけたくて、横須賀の米軍基地内に就職した。労働の対価をほとんどレコード購入にあて、ターンテーブルと楽器、レコードに埋もれた倉庫のような部屋で寝起きしていた。ずっと外国の音楽が生活の中心にあった。
今年の冬のある日、弟から電話があった。「明日そっちにいくから泊めてくれない?」彼はいつも突然遊びに来る。この前は飛行機を降り立った那覇空港ではじめて連絡をよこした。それに比べればいくぶんいい。あいにく夜勤だったので泊めてやることはできなかったが、その翌日に会う約束をした。
弟がいたく気に入っている栄町の「あだん」で島酒を飲みながら、最近聴いた音楽や観た映画の話をした。彼とはあまり仕事や日常の話をしたことがない。別に避けているつもりはないのだが、不思議と話題に上がらない。いつも音楽と映画の話ばかりだ。 ひとしきり話したあと、そういえば、と僕は弟に尋ねた。「なんで突然沖縄に来たの?」「こっちでやるライヴのチケットをオークションで安く落とせたから。いま仕事が暇でさ。」と弟。沖縄では、アメリカの有名ミュージシャンが米軍基地の慰問に来たついでに日本人向けにもライヴをする、ということが珍しくない。「誰のライヴ?」と聞くと弟は少し気恥ずかしそうにして答えた。「も、ももクロ…。」
びっくりした。弟はいつも「80年代にアメリカで生まれてマイケル・ジャクソンに熱狂したかった。70年代にジャマイカでボブ・マーリーの怒りを共感したかった。どんなに聴き込んでも、今の日本で彼らの音楽を本当に味わうことはできない。文化や背景が違いすぎる。」と音楽の同時代性について語り、リアリティを感じられないことを嘆いていた。マイケルやボブを深く愛し、とことん追求しているからこそ達した感覚なのだと思う。その弟は今、日本のアイドルに魅せられて、遠く沖縄まで来ている。いったいどういうことか。
外資系レコード店でラップ音楽のバイヤーをしている友だちに「とにかくこのビデオを観ろ。」と強引に勧められたのが、ももクロのライヴ映像だったらしい。これは、と思いすぐにライヴにいった。そのライヴで涙が止まらなくなり、以来何度も足を運んでいるという。曰く「ようやく自分の音楽に出会えた。」らしい。
黒人の音楽は自分の音楽になり得なかった、という理屈はよくわかる。でもその話の延長線上にももクロが出てきて、自分の音楽になった、というがどうもわからない。あまりに毛色が違いすぎる。僕がいうと弟は「うん、それみんなにいわれるよ。でも俺の中では繋がってるんだよね、上手くいえないけど。」と応じた。彼がももクロのどこに魅力を感じているのか、結局よくわからなかった。
ももクロと聞いてニコニコ動画の番組のことを思い出し「キングオブコメディっていうお笑いの…」といいかけるや否や、弟は「ああ、パーケンね。」と即座に返した。ももクロファンの間で彼は有名で、尊敬の的になっているらしい。彼の言動がファンの共感を得ているのだそうだ。
僕の好きなお笑い芸人が愛し、互いに影響を与え合った弟が魅了されているももクロとは、いったい何者なんだ。ちょっと興味が湧いている。でも一度足を踏み入れたらどっぷりと引き込まれてしまいそうで怖くもある。
20130615
A Climbing Monkey
入学試験が間近に迫った冬、僕は悲観していた。いきたい大学の試験科目がこれまでと変わり、「人物着彩」という課題が出される予定になっていた。「ポーズをとったモデルを水彩絵具やアクリルガッシュで描写する」というものだ。僕は鉛筆デッサンや立体造形は好きだが、絵具で絵を描くのが苦手だった。浪人2年目、もう後がない、今年決めなければならない、あの大学に絶対入りたい。でもまったく自信が持てなかった。描いても描いても上手くいかない。ともに合格を目指すアトリエの仲間たちは精鋭ぞろいで、みんな美しい人物画をさらさらと仕上げる。焦っていた。
朝から絵具と格闘してどうにか描き上げた一枚は、相変わらずお粗末なものだった。仲間たちの作品と並べると僕の絵は一際汚い。講師陣の講評は代わり映えのしない内容だ。いや、むしろナイーブな僕の心中を推し量ってか、以前よりも優しい論調になっている気がする。そんな配慮がなお悔しい。
夜遅くに講評会が終わりアトリエを出ると、一面銀世界だった。見上げると澄んだ空に星が輝いている。いつの間にか大雪が降り、そして晴れたようだ。雪が街灯の光を柔らかく跳ね返し、普段より明るい小町通りを鎌倉駅へ歩く。この時間の小町通りはいつも静かだが、今日はことさら静かに感じる。積もった雪の白さがそうさせるのか。冷たい空気が火照った体を冷ましてくれる。駅に着きいつもよりゆっくり走る電車に乗った。
磯子駅も明るく静かだった。見慣れた地元が知らない土地のように思える。駐輪場にいくと僕のバイクは雪に埋もれ、どこにあるのかわからなくなっていた。
ホンダのモンキー。小学生にちょうどいいくらいの小さな車体に50ccのエンジンを積んだバイクだ。アトリエの講師が乗らなくなった新車同然のこのバイクを、格安で譲ってもらって下駄代わりにしていた。広い道路を走るには非力で不安を感じるが、小さい分取り回しが簡単で、オモチャのように遊ぶには楽しい。受験勉強一色の当時の僕にとって、このモンキーが息抜きの道具になっていた。片道10分あまり、家と駅の往復もちょっとした楽しみだった。
普通に考えれば今日のところはバイクは置いて、歩いて帰るのが正解だと思う。でもこのときの僕には、バイクに乗って帰るという以外の選択肢を考えられなかった。雪の積もったあの坂をモンキーで登りたい。頭にあったのはそれだけだった。雪の山をかきわけてバイクを見つけ掘り返した。ヘルメットの中に詰まった雪もかき出す。冷えきったエンジンはかからない。何度もキックペダルを踏み、じんわりと額に汗がにじんだ頃にようやくかかった。鼻をすすり煙草を1本吸ってエンジンが暖まるのを待ち、ギアを入れてゆっくりクラッチをつなぐ。後輪はすぐに空回りをする。なかなか真っすぐ走ってくれない。よろよろしながら家路についた。いつもならば横浜プリンスホテルの敷地を抜ける。それが最短距離で早いからだ。でも今日は少し遠回りをするつもりだ。プリンスホテルの裏手、地元の人たちが「旧道」と呼ぶ通りを目指す。間坂の交番を左に曲がり坂を上って旧道に出る。さらに左に曲がるとやがて長く真っすぐな坂が現れる。近所で一番の急坂だ。この坂を登りたかった。
なぜかと問われると答えに困るのだが、幼い頃から坂が好きだ。 急な坂、細い坂、くねくね曲がる坂、坂を見ると登りたくなる。走って上がるのもいいし自転車を漕いで上がるのも楽しい。どうしてか登り坂をみると気分が高揚する。
坂に差し掛かった。勾配がきつくなるにつれて湿った雪にタイヤが獲られ、滑りはじめる。徐々に速度を保てなくなり進まなくなった。 見回すと道の脇に何台も乗用車が停まっている。坂を登れなく立ち往生した車が乗り捨てられているようだ。俄然気持ちが高ぶる。何が何でもこの坂を制してやろう。両足は地面につけたまま、スロットルをグイとひねってエンジンを吹かす。高回転を維持したままクラッチをつなぐ。ホイルスピンをして雪を巻き上げながら発進した。灰色の雪が背中に飛び散る。クラッチレバーを微調整して少しずつ登る。何度も止まり、進み、を繰り返してようやく頂上にたどり着いた。バイクも僕も泥だらけだ。息が弾んでいる。清々しい。
達成感に浸りながら坂の頂上で一服してからまた家路についた。汐見台中学の信号を右に曲がり自宅のある団地に入る。団地の入口にも急坂があり、ここにも乗り捨てられた車がある。だが怖くはない。旧道の坂を制した僕にしてみればこの程度の坂はなんでもない。悠々と登り切り、家まであとちょっとのところで空き地が目に入った。長く駐車場として使われていたが、新棟が建つことになって整理されたばかりの土地だ。一面に雪が積もっていて足跡ひとつない。月明かりに照らされてキラキラしている。僕は引き寄せられるように空き地に入っていった。モンキーを駆り、広い空き地を縦横無尽に走り回った。粉雪を舞い上げながら車体を横滑りさせる。右に左に体を振ってわざと転ぶ。新雪に倒れるのでまったく痛くない。空き地をグルグル駆け巡ってまっさらな雪をひとしきり泥だらけにしたところで満足し、家に帰った。磯子駅から家までいつもなら10分、このときは2時間かかった。
この翌日から僕は吹っ切れたのか、なにかに目覚めたのか、人が変わったように美しい人物画を描くようになった、となれば格好がいい。でも現実はそうじゃなかった。翌日から風邪をひき、熱を出して2日寝込んだ。その次の日にまた人物画を描いたが、これまでと変わらず下手糞だった。
朝から絵具と格闘してどうにか描き上げた一枚は、相変わらずお粗末なものだった。仲間たちの作品と並べると僕の絵は一際汚い。講師陣の講評は代わり映えのしない内容だ。いや、むしろナイーブな僕の心中を推し量ってか、以前よりも優しい論調になっている気がする。そんな配慮がなお悔しい。
夜遅くに講評会が終わりアトリエを出ると、一面銀世界だった。見上げると澄んだ空に星が輝いている。いつの間にか大雪が降り、そして晴れたようだ。雪が街灯の光を柔らかく跳ね返し、普段より明るい小町通りを鎌倉駅へ歩く。この時間の小町通りはいつも静かだが、今日はことさら静かに感じる。積もった雪の白さがそうさせるのか。冷たい空気が火照った体を冷ましてくれる。駅に着きいつもよりゆっくり走る電車に乗った。
磯子駅も明るく静かだった。見慣れた地元が知らない土地のように思える。駐輪場にいくと僕のバイクは雪に埋もれ、どこにあるのかわからなくなっていた。
ホンダのモンキー。小学生にちょうどいいくらいの小さな車体に50ccのエンジンを積んだバイクだ。アトリエの講師が乗らなくなった新車同然のこのバイクを、格安で譲ってもらって下駄代わりにしていた。広い道路を走るには非力で不安を感じるが、小さい分取り回しが簡単で、オモチャのように遊ぶには楽しい。受験勉強一色の当時の僕にとって、このモンキーが息抜きの道具になっていた。片道10分あまり、家と駅の往復もちょっとした楽しみだった。
普通に考えれば今日のところはバイクは置いて、歩いて帰るのが正解だと思う。でもこのときの僕には、バイクに乗って帰るという以外の選択肢を考えられなかった。雪の積もったあの坂をモンキーで登りたい。頭にあったのはそれだけだった。雪の山をかきわけてバイクを見つけ掘り返した。ヘルメットの中に詰まった雪もかき出す。冷えきったエンジンはかからない。何度もキックペダルを踏み、じんわりと額に汗がにじんだ頃にようやくかかった。鼻をすすり煙草を1本吸ってエンジンが暖まるのを待ち、ギアを入れてゆっくりクラッチをつなぐ。後輪はすぐに空回りをする。なかなか真っすぐ走ってくれない。よろよろしながら家路についた。いつもならば横浜プリンスホテルの敷地を抜ける。それが最短距離で早いからだ。でも今日は少し遠回りをするつもりだ。プリンスホテルの裏手、地元の人たちが「旧道」と呼ぶ通りを目指す。間坂の交番を左に曲がり坂を上って旧道に出る。さらに左に曲がるとやがて長く真っすぐな坂が現れる。近所で一番の急坂だ。この坂を登りたかった。
なぜかと問われると答えに困るのだが、幼い頃から坂が好きだ。 急な坂、細い坂、くねくね曲がる坂、坂を見ると登りたくなる。走って上がるのもいいし自転車を漕いで上がるのも楽しい。どうしてか登り坂をみると気分が高揚する。
坂に差し掛かった。勾配がきつくなるにつれて湿った雪にタイヤが獲られ、滑りはじめる。徐々に速度を保てなくなり進まなくなった。 見回すと道の脇に何台も乗用車が停まっている。坂を登れなく立ち往生した車が乗り捨てられているようだ。俄然気持ちが高ぶる。何が何でもこの坂を制してやろう。両足は地面につけたまま、スロットルをグイとひねってエンジンを吹かす。高回転を維持したままクラッチをつなぐ。ホイルスピンをして雪を巻き上げながら発進した。灰色の雪が背中に飛び散る。クラッチレバーを微調整して少しずつ登る。何度も止まり、進み、を繰り返してようやく頂上にたどり着いた。バイクも僕も泥だらけだ。息が弾んでいる。清々しい。
達成感に浸りながら坂の頂上で一服してからまた家路についた。汐見台中学の信号を右に曲がり自宅のある団地に入る。団地の入口にも急坂があり、ここにも乗り捨てられた車がある。だが怖くはない。旧道の坂を制した僕にしてみればこの程度の坂はなんでもない。悠々と登り切り、家まであとちょっとのところで空き地が目に入った。長く駐車場として使われていたが、新棟が建つことになって整理されたばかりの土地だ。一面に雪が積もっていて足跡ひとつない。月明かりに照らされてキラキラしている。僕は引き寄せられるように空き地に入っていった。モンキーを駆り、広い空き地を縦横無尽に走り回った。粉雪を舞い上げながら車体を横滑りさせる。右に左に体を振ってわざと転ぶ。新雪に倒れるのでまったく痛くない。空き地をグルグル駆け巡ってまっさらな雪をひとしきり泥だらけにしたところで満足し、家に帰った。磯子駅から家までいつもなら10分、このときは2時間かかった。
この翌日から僕は吹っ切れたのか、なにかに目覚めたのか、人が変わったように美しい人物画を描くようになった、となれば格好がいい。でも現実はそうじゃなかった。翌日から風邪をひき、熱を出して2日寝込んだ。その次の日にまた人物画を描いたが、これまでと変わらず下手糞だった。
20130614
A Glass of Wine with Some Strawberries
1枚の写真がSNSにポストされている。それを見て僕は思わず大きな声を出した。「飲みたい!」突如として記憶が溢れ出る。
おととしの今頃、学生時代からの友だちの結婚式にお呼ばれして、ドイツのボンを訪れた。結婚式前日の夕方に友だちのご主人の実家にお邪魔した。式のあと庭でパーティが催される予定で、家のひとたちは飾り付けや料理の準備に忙しい。日本から駆けつけた友だちの親族ご一行も集まっていて準備を手伝っていた。そこによそ者の僕が図々しくも上がり込んだのだ。ありがたいことに両家の皆さんは、この怪しい日本の中年男を快く受け入れてくれ、一緒に準備をしようと笑顔で誘ってくれる。新郎の従姉妹による指揮の下で庭の飾り付けをしていたら新郎のお母さんがビールとソーセージを持ってきてくれた。どちらも美味い。大騒ぎして喜ぶとお母さんはさらに勧めてくれる。ワインも飲め、スープはどうだ、サンドウィッチを作ろうか。もはや手伝いにきたのか食事をいただきにきたのかわからない。
ガラスのボウルに盛られた苺を出してくれた。庭でいま採ったのだという。赤が濃く小粒で形の不揃いな苺は、強めの酸味とほどよい渋味があって爽やかだ。香りもすごくいい。こんなに美味しい苺は食べたことがないと僕はまた騒ぐ。するとお母さんが細くて脚の長いグラスを僕に差し出し、ワインを注いでくれた。ほんのりと甘くすっきりとした白のスパークリングワインで、清涼感があって美味しい。お母さんが苺をグラスに入れてみろという。へたを取り4、5個浮かべて飲んでみる。 からだに電気が走った。口に含むと柔らかく甘さが広がって、噛むと苺のすっぱい果汁が甘みを際立たせる。恍惚のときは次の瞬間に訪れる。飲み込むのと同時に苺と葡萄の瑞々しい香りが鼻から抜けて全身の皮膚感覚が一瞬鋭敏になり、そのあと筋肉が弛緩する。キューバで葉巻を吸ったときにも同じ感覚を味わった。ひとは美しい香りをかぐとこんな風にからだが反応するようにできているのかもしれない。僕はこの魔法の酒の虜になった。何度も何度もおかわりした。友だちと新郎一家の計らいで、僕はこの晩ここに泊めてもらえることになっている。異国の夜道を千鳥足でさまよう必要はない。心置きなく酔いしれた。
次の日の朝、教会での結婚式に向かう前に、僕は背広に着替えて大学の仲間たちが到着するのを庭先で待っていた。何人かは早朝にドイツに着く飛行機で日本からやって来るし、ドイツやヨーロッパ各地で生活している仲間たちも結婚を祝うために集うことになっていたのだ。脇のテーブルの上にワインクーラーがある。きのうのと同じワインが冷やされていた。僕は居ても立ってもいられずに栓を抜き、花壇で熟した苺をむしり取って飲みはじめた。きょうもたまらなく美味い。何杯かおかわりしているうちに、ひとりまたひとり仲間が集まってきた。すでにいい気持ちの僕は仲間が着くたびに魔法の酒を勧める。まあ飲んでみろ、どうだ美味いだろ。まるで自分の家で自分が作った料理を振る舞うかのごとく得意気な顔をしていたに違いない。
結婚式も、友だちの花嫁姿も、パーティで大活躍した生ビールのトレーラーも、仲間のベルリン四方山話も、親方特製木目金の指輪も、ケルンでの晩餐も、デュッセルドルフのボロアパートも、どれもすばらしかった。でもこの旅で圧倒的に印象深いのは、苺を浮かべたワインの香りだ。決して忘れられない。
投稿されていたのはこの苺ワインの写真だった。「苺の季節到来」とキャプションが添えられている。いまもボンで生活し母となった、あの友だちからのものだ。ああ、あの香りが恋しい。ドイツにいきたい。
おととしの今頃、学生時代からの友だちの結婚式にお呼ばれして、ドイツのボンを訪れた。結婚式前日の夕方に友だちのご主人の実家にお邪魔した。式のあと庭でパーティが催される予定で、家のひとたちは飾り付けや料理の準備に忙しい。日本から駆けつけた友だちの親族ご一行も集まっていて準備を手伝っていた。そこによそ者の僕が図々しくも上がり込んだのだ。ありがたいことに両家の皆さんは、この怪しい日本の中年男を快く受け入れてくれ、一緒に準備をしようと笑顔で誘ってくれる。新郎の従姉妹による指揮の下で庭の飾り付けをしていたら新郎のお母さんがビールとソーセージを持ってきてくれた。どちらも美味い。大騒ぎして喜ぶとお母さんはさらに勧めてくれる。ワインも飲め、スープはどうだ、サンドウィッチを作ろうか。もはや手伝いにきたのか食事をいただきにきたのかわからない。
ガラスのボウルに盛られた苺を出してくれた。庭でいま採ったのだという。赤が濃く小粒で形の不揃いな苺は、強めの酸味とほどよい渋味があって爽やかだ。香りもすごくいい。こんなに美味しい苺は食べたことがないと僕はまた騒ぐ。するとお母さんが細くて脚の長いグラスを僕に差し出し、ワインを注いでくれた。ほんのりと甘くすっきりとした白のスパークリングワインで、清涼感があって美味しい。お母さんが苺をグラスに入れてみろという。へたを取り4、5個浮かべて飲んでみる。 からだに電気が走った。口に含むと柔らかく甘さが広がって、噛むと苺のすっぱい果汁が甘みを際立たせる。恍惚のときは次の瞬間に訪れる。飲み込むのと同時に苺と葡萄の瑞々しい香りが鼻から抜けて全身の皮膚感覚が一瞬鋭敏になり、そのあと筋肉が弛緩する。キューバで葉巻を吸ったときにも同じ感覚を味わった。ひとは美しい香りをかぐとこんな風にからだが反応するようにできているのかもしれない。僕はこの魔法の酒の虜になった。何度も何度もおかわりした。友だちと新郎一家の計らいで、僕はこの晩ここに泊めてもらえることになっている。異国の夜道を千鳥足でさまよう必要はない。心置きなく酔いしれた。
次の日の朝、教会での結婚式に向かう前に、僕は背広に着替えて大学の仲間たちが到着するのを庭先で待っていた。何人かは早朝にドイツに着く飛行機で日本からやって来るし、ドイツやヨーロッパ各地で生活している仲間たちも結婚を祝うために集うことになっていたのだ。脇のテーブルの上にワインクーラーがある。きのうのと同じワインが冷やされていた。僕は居ても立ってもいられずに栓を抜き、花壇で熟した苺をむしり取って飲みはじめた。きょうもたまらなく美味い。何杯かおかわりしているうちに、ひとりまたひとり仲間が集まってきた。すでにいい気持ちの僕は仲間が着くたびに魔法の酒を勧める。まあ飲んでみろ、どうだ美味いだろ。まるで自分の家で自分が作った料理を振る舞うかのごとく得意気な顔をしていたに違いない。
結婚式も、友だちの花嫁姿も、パーティで大活躍した生ビールのトレーラーも、仲間のベルリン四方山話も、親方特製木目金の指輪も、ケルンでの晩餐も、デュッセルドルフのボロアパートも、どれもすばらしかった。でもこの旅で圧倒的に印象深いのは、苺を浮かべたワインの香りだ。決して忘れられない。
投稿されていたのはこの苺ワインの写真だった。「苺の季節到来」とキャプションが添えられている。いまもボンで生活し母となった、あの友だちからのものだ。ああ、あの香りが恋しい。ドイツにいきたい。
20130610
Fires on The Opposite Shore
あの日は昼間の勤務だった。 病棟の一角にある談話スペースに患者たちが集まって、テレビに食い入っていた。真っ赤な炎と真っ黒い煙が映っている。海沿いの工場が激しく燃えているようだ。どこかで大きな地震があったらしいよ、と患者のひとりが教えてくれた。アナウンサーがたどたどしく原稿を読んでいる。情報が錯綜しているようで、まったく的を射ない。しばらく大火事を見ていると画面の隅に「LIVE - 千葉県上空」と文字が出て、血の気が引いた。家族や友だちの顔が次々に浮かぶが、実家に電話をかけにいくでもなく、かといって元の仕事に戻るでもなく、ただ燃え盛る工場の様子を見つめることしかできない。各地の震度が少しずつ示されるようになり、津波や余震への注意喚起が繰り返しアナウンスされる。手にびっしょりと汗をかいていた。しばらくすると主婦業と看護師業、二足のわらじを履きこなす肝っ玉母ちゃんといった風の同僚がやってきて、僕に「なにがあったの?」と尋ねた。「内地で大地震って。かなりひどいみたい。」と僕。すると彼女は「えー、困る!」と大きな声を上げた。「野菜が高くなるじゃない!」
近隣諸国との関係を保つために米軍基地は必要、地理的な条件を考えると沖縄に基地を置くのが妥当。地元に帰ると聞こえる声だ。全国ネットのニュース番組や大手の新聞紙面でもそんな論調が目に留まる。基地問題は安全保障の問題だ、と捉えるひとがたくさんいるようだ。
沖縄本島をドライブすると気づく。この島の平らな土地はほとんど米軍の基地になっていて、沖縄の人々は平地以外の山や海沿いで暮らしている。夜の国道58号線、北谷辺りでYナンバーの改造スポーツカーが、急発進と乱暴な車線変更を繰り返す。体力自慢の男の子たちが故郷を離れ、異国できつい仕事をしている。給料は安いが家賃も光熱費もかからないから自然と金が貯まる。ほかに楽しみはない。血気盛んな彼らがあこがれの高性能な日本車を買って、飛ばしたくなるのは当然といえば当然。そして当然事故が多い。
「僕の娘がよ、酔っぱらった米兵に乱暴されたわけさ。あれから娘は外に出れんくなってずっとお家にいる。米兵や軍が許せんよ。憎くてたまらんさ。基地なんていらん、なくなってほしいよ。でも古い付き合いのお隣さんは夫婦揃って基地内で働いているからや、大きな声でアメリカーを悪くはいえないわけさ。」
失業率一位を独走する沖縄で、米軍に直接雇用されている日本人は約9000人。基地内の工事や建設、流通や販売などに携わる日本人を含めると、さらに多くのひとが米軍から支払われる賃金で生活している。米軍は沖縄県庁に次ぐ大きな雇用主で、米軍なしに沖縄の経済は成り立たない。
震災があった年の夏、ある研修に参加した。県内各所から看護師が集まり、知識や技術を磨こうというものだ。その研修で10人あまりの班に別れてグループディスカッションをすることになり、互いに見知らぬ参加者たちが輪になった。
ある活発な参加者が司会を買って出て、手始めに自己紹介をしようと提案してくれた。ひとりずつ名乗り、勤務先や専門とする診療科などを簡単に話す。僕の番になって「飯塚と申します。」というと司会のひとが「どちらのご出身?」と尋ねた。沖縄では地元の出身か県外出身か、苗字ですぐにわかる。「神奈川です。」というと「お、都会ですね、中華街は楽しいよね。」と応じてくれる。こんな風にして司会者と一言二言やり取りをしながら自己紹介が進んでいった。
ある若い看護師が名乗ると、また司会者は「ご出身は?」と聞いた。沖縄にはない苗字だったからだ。彼女が「宮城県です。」と答えると司会者は「あら!ご実家は大丈夫だった?」と聞き返す。彼女はすこし下を向き、そのあと小さくいった。「津波で父と母が…。」
司会者は一瞬戸惑ったがすぐに隣の参加者に自己紹介するよう促した。その後自己紹介のリレーは滞りなく進んだ。でも誰も彼女の顔を見ることができない。彼女も顔を上げられない。「巨人がまた勝ちましたね。」「暑い日が続きますなあ。」司会者はそんな軽い感覚で彼女に質問したのかもしれない。どんな答えが返ってくるのかあまり想像せずに尋ねたようだ。初対面のひとに震災や原発の話をするのは危険、図らず他人を傷つけかねない。東日本のひとなら誰でも知っていることを、この司会者は知らなかった。
タクシーの運転手さんはおしゃべり好きなひとが多い。そして基地の話をしたがるひとが多い気がする。あるときどういう流れからだったか、基地に土地を貸す地主の話題になった。悲喜こもごもがあるようだ。終戦後、米軍が基地のために土地を徴収し、その所有者に賃貸料が支払われることになった。当時の所有者は戦争で苦労しているので、賃貸料に頼らず真面目に働いた。だが土地の所有権が息子の代に移ると、息子は働かずに遊んで暮らすようになる。親が働いて残した金と賃貸料で、苦労なく生活できるからだ。本土の悪い不動産屋がそんな状況に目を付けた。不動産屋はひとを雇って息子と毎日遊びにいくように仕向ける。はじめはパチンコ屋。息子が味を占めると本格的な賭博に誘った。息子が夢中になり負けたところで金を貸す。少しずつ金額を増やしながら何度も金を貸して息子の感覚を麻痺させる。さらに負けが込むと土地の所有権を担保に取ってまた金を貸す。賭博に狂った息子は返せるはずもなく、土地は不動産屋の手に渡る。こんな風にしてわずか数年で土地を失った地主の二代目が多いのだそうだ。運転手さん曰く「二代目は若い頃から苦労していないし、ろくに勉強もしていないさ。だから簡単に騙されてしまうよ。」と。
別の運転手さんの話。軍用地の賃貸料はその用途で大きく違うという。一番高いのは普天間飛行場の滑走路だそうだ。妻の実家がこの滑走路に土地を持っていて年に7500万円の収入があるのだが、妻の兄が親からすべて相続して独り占めし、自分たち夫婦には一銭もよこさない、と運転手さんは嘆いていた。この兄が遊んで暮らしているのかといえば、そうではないらしい。莫大な資金を投じて起業し、全国にフランチャイズ展開する有名飲食店の、沖縄での元締めをしているのだという。大きな通りを走ればいたるところでその店を見かけるし、テレビコマーシャルもよく流れている。とても繁盛しているようで、毎年賃貸料の何倍という金を稼いでいるのだそうだ。
近隣諸国との関係を保つために米軍基地は必要、地理的な条件を考えると沖縄に基地を置くのが妥当。地元に帰ると聞こえる声だ。全国ネットのニュース番組や大手の新聞紙面でもそんな論調が目に留まる。基地問題は安全保障の問題だ、と捉えるひとがたくさんいるようだ。
沖縄本島をドライブすると気づく。この島の平らな土地はほとんど米軍の基地になっていて、沖縄の人々は平地以外の山や海沿いで暮らしている。夜の国道58号線、北谷辺りでYナンバーの改造スポーツカーが、急発進と乱暴な車線変更を繰り返す。体力自慢の男の子たちが故郷を離れ、異国できつい仕事をしている。給料は安いが家賃も光熱費もかからないから自然と金が貯まる。ほかに楽しみはない。血気盛んな彼らがあこがれの高性能な日本車を買って、飛ばしたくなるのは当然といえば当然。そして当然事故が多い。
「僕の娘がよ、酔っぱらった米兵に乱暴されたわけさ。あれから娘は外に出れんくなってずっとお家にいる。米兵や軍が許せんよ。憎くてたまらんさ。基地なんていらん、なくなってほしいよ。でも古い付き合いのお隣さんは夫婦揃って基地内で働いているからや、大きな声でアメリカーを悪くはいえないわけさ。」
失業率一位を独走する沖縄で、米軍に直接雇用されている日本人は約9000人。基地内の工事や建設、流通や販売などに携わる日本人を含めると、さらに多くのひとが米軍から支払われる賃金で生活している。米軍は沖縄県庁に次ぐ大きな雇用主で、米軍なしに沖縄の経済は成り立たない。
震災があった年の夏、ある研修に参加した。県内各所から看護師が集まり、知識や技術を磨こうというものだ。その研修で10人あまりの班に別れてグループディスカッションをすることになり、互いに見知らぬ参加者たちが輪になった。
ある活発な参加者が司会を買って出て、手始めに自己紹介をしようと提案してくれた。ひとりずつ名乗り、勤務先や専門とする診療科などを簡単に話す。僕の番になって「飯塚と申します。」というと司会のひとが「どちらのご出身?」と尋ねた。沖縄では地元の出身か県外出身か、苗字ですぐにわかる。「神奈川です。」というと「お、都会ですね、中華街は楽しいよね。」と応じてくれる。こんな風にして司会者と一言二言やり取りをしながら自己紹介が進んでいった。
ある若い看護師が名乗ると、また司会者は「ご出身は?」と聞いた。沖縄にはない苗字だったからだ。彼女が「宮城県です。」と答えると司会者は「あら!ご実家は大丈夫だった?」と聞き返す。彼女はすこし下を向き、そのあと小さくいった。「津波で父と母が…。」
司会者は一瞬戸惑ったがすぐに隣の参加者に自己紹介するよう促した。その後自己紹介のリレーは滞りなく進んだ。でも誰も彼女の顔を見ることができない。彼女も顔を上げられない。「巨人がまた勝ちましたね。」「暑い日が続きますなあ。」司会者はそんな軽い感覚で彼女に質問したのかもしれない。どんな答えが返ってくるのかあまり想像せずに尋ねたようだ。初対面のひとに震災や原発の話をするのは危険、図らず他人を傷つけかねない。東日本のひとなら誰でも知っていることを、この司会者は知らなかった。
タクシーの運転手さんはおしゃべり好きなひとが多い。そして基地の話をしたがるひとが多い気がする。あるときどういう流れからだったか、基地に土地を貸す地主の話題になった。悲喜こもごもがあるようだ。終戦後、米軍が基地のために土地を徴収し、その所有者に賃貸料が支払われることになった。当時の所有者は戦争で苦労しているので、賃貸料に頼らず真面目に働いた。だが土地の所有権が息子の代に移ると、息子は働かずに遊んで暮らすようになる。親が働いて残した金と賃貸料で、苦労なく生活できるからだ。本土の悪い不動産屋がそんな状況に目を付けた。不動産屋はひとを雇って息子と毎日遊びにいくように仕向ける。はじめはパチンコ屋。息子が味を占めると本格的な賭博に誘った。息子が夢中になり負けたところで金を貸す。少しずつ金額を増やしながら何度も金を貸して息子の感覚を麻痺させる。さらに負けが込むと土地の所有権を担保に取ってまた金を貸す。賭博に狂った息子は返せるはずもなく、土地は不動産屋の手に渡る。こんな風にしてわずか数年で土地を失った地主の二代目が多いのだそうだ。運転手さん曰く「二代目は若い頃から苦労していないし、ろくに勉強もしていないさ。だから簡単に騙されてしまうよ。」と。
別の運転手さんの話。軍用地の賃貸料はその用途で大きく違うという。一番高いのは普天間飛行場の滑走路だそうだ。妻の実家がこの滑走路に土地を持っていて年に7500万円の収入があるのだが、妻の兄が親からすべて相続して独り占めし、自分たち夫婦には一銭もよこさない、と運転手さんは嘆いていた。この兄が遊んで暮らしているのかといえば、そうではないらしい。莫大な資金を投じて起業し、全国にフランチャイズ展開する有名飲食店の、沖縄での元締めをしているのだという。大きな通りを走ればいたるところでその店を見かけるし、テレビコマーシャルもよく流れている。とても繁盛しているようで、毎年賃貸料の何倍という金を稼いでいるのだそうだ。
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20130608
Ease & Pleasure
沖縄のラーメンは美味しくない、と本土出身の人は口を揃えていう。都会っ子風を吹かせて沖縄の人たちを悪くいうつもりは毛頭ない。でもラーメンについては僕も多くの本土出身者の意見に賛成だ。一度食べたら二度と味を忘れられないような、美味しい沖縄そば屋はごまんとあるのに、ラーメン屋となると少ない。だから評判のいい店に食べにいっても、がっかりして帰ることが多い。沖縄では油が多くて塩気の強い、パンチの効いたラーメンが人気のようで、そんなラーメンを供する店が繁盛している。僕は食べ物の味についてあれこれと語れるほどの舌を持ち合わせていないので、偉そうなことをいうのははばかられるのだが、どの店もインパクトばかりで味に深みがないように感じる。もう一度食べにいこうと思うにはいたらない。
家の近所に美味しい店がある。「麺や 和楽」京都ラーメンをうたっている。背油の浮いた醤油スープと細くて真っすぐな麺の組み合わせ。そこに三枚肉を炊いたチャーシューと太めのメンマ、小口切りの九条葱がのる。短く刻んだ韮、おろし大蒜、一味唐辛子を和えたものが薬味として別に出され、好みでどんぶりに足して食べる。見た目はこってりとしていそうだが実に柔らかい口当たりで香りもいい。薄切りのチャーシューがとても美味しいので、僕はいつも「肉中華そば」と「ご飯」を頼む。歳のせいか、最近は家系でラーメン並海苔増しライスを食べきるのに苦しむが、これはしつこくないのでぺろりといける。
和楽は角刈りで強面だが気の良さそうなご主人と、笑顔で穏やかな物腰の女将さんの二人が切り盛りしている。 厨房ではいつも、耳に心地よい関西弁の会話が明るく交わされていて、カウンター越しにご夫妻と楽しそうに話す常連客も多い。僕は極度の人見知り、内弁慶なので店員さんと気さくに話をすることができない。だからご夫妻の会話をBGMにラーメンを食べるだけで十分だ。むしろ食べ物屋さんで「いつもどうも」とか「お久しぶり」とか「今日はなんにします?」なんて声をかけられると、もうその店にいけなくなってしまう。常連客のように扱われるのが気恥ずかしくてたまらない。無機質に、常に初めて見るように扱われたいのだ。ところが和楽の女将さんは僕に「いつものでいい?」と尋ねてくる。いく度に決まって「肉中華そばとご飯」と注文するのだから、女将さんの問いかけは当然なのだけれど、こちらとしてはやっぱり恥ずかしい。下を向いて小さく「はい」と答えることしかできない。たぶんほかの店だったら僕はとっくに通うのをよしているだろう。でも和楽はこの恥ずかしさを圧してでもまたいきたい。それほど美味しいし店の雰囲気が好きだ。
何ヶ月か前、和楽の前を車で通りかかったときに、ご主人が店のシャッターを閉めながら携帯電話で話をしているのを見かけた。いつもなら営業しているはずの時間だったので、不思議に思いながら通り過ぎた。それ以降シャッターはずっと閉ざされていて「しばらく休業します」という走り書きの張り紙がしてある。店の前を通る度に様子をうかがうのだが、張り紙が雨風にさらされてだんだんよれていく以外に変化はなかった。ご主人か、女将さんか、体調を崩しているのだろうか。それともなにか別のトラブルか。いずれにしてもとても心配だ。
先週また店の前を通ったときに張り紙が変わっていた。「6月中旬頃から営業を再開します」よかった、問題は解決したみたいだ。肉中華そばとご飯を食べられる日が待ち遠しい。
家の近所に美味しい店がある。「麺や 和楽」京都ラーメンをうたっている。背油の浮いた醤油スープと細くて真っすぐな麺の組み合わせ。そこに三枚肉を炊いたチャーシューと太めのメンマ、小口切りの九条葱がのる。短く刻んだ韮、おろし大蒜、一味唐辛子を和えたものが薬味として別に出され、好みでどんぶりに足して食べる。見た目はこってりとしていそうだが実に柔らかい口当たりで香りもいい。薄切りのチャーシューがとても美味しいので、僕はいつも「肉中華そば」と「ご飯」を頼む。歳のせいか、最近は家系でラーメン並海苔増しライスを食べきるのに苦しむが、これはしつこくないのでぺろりといける。
和楽は角刈りで強面だが気の良さそうなご主人と、笑顔で穏やかな物腰の女将さんの二人が切り盛りしている。 厨房ではいつも、耳に心地よい関西弁の会話が明るく交わされていて、カウンター越しにご夫妻と楽しそうに話す常連客も多い。僕は極度の人見知り、内弁慶なので店員さんと気さくに話をすることができない。だからご夫妻の会話をBGMにラーメンを食べるだけで十分だ。むしろ食べ物屋さんで「いつもどうも」とか「お久しぶり」とか「今日はなんにします?」なんて声をかけられると、もうその店にいけなくなってしまう。常連客のように扱われるのが気恥ずかしくてたまらない。無機質に、常に初めて見るように扱われたいのだ。ところが和楽の女将さんは僕に「いつものでいい?」と尋ねてくる。いく度に決まって「肉中華そばとご飯」と注文するのだから、女将さんの問いかけは当然なのだけれど、こちらとしてはやっぱり恥ずかしい。下を向いて小さく「はい」と答えることしかできない。たぶんほかの店だったら僕はとっくに通うのをよしているだろう。でも和楽はこの恥ずかしさを圧してでもまたいきたい。それほど美味しいし店の雰囲気が好きだ。
何ヶ月か前、和楽の前を車で通りかかったときに、ご主人が店のシャッターを閉めながら携帯電話で話をしているのを見かけた。いつもなら営業しているはずの時間だったので、不思議に思いながら通り過ぎた。それ以降シャッターはずっと閉ざされていて「しばらく休業します」という走り書きの張り紙がしてある。店の前を通る度に様子をうかがうのだが、張り紙が雨風にさらされてだんだんよれていく以外に変化はなかった。ご主人か、女将さんか、体調を崩しているのだろうか。それともなにか別のトラブルか。いずれにしてもとても心配だ。
先週また店の前を通ったときに張り紙が変わっていた。「6月中旬頃から営業を再開します」よかった、問題は解決したみたいだ。肉中華そばとご飯を食べられる日が待ち遠しい。
20130320
Incredibleman
青い空、赤茶けた地面、乾いた空気。風ひとつ吹かず時間が止まったような午後、陽は西に傾きはじめている。広い広いとうもろこし畑の脇に一台の大きな高級車が停まっていて、その後部座席に中年の男が二人座っている。二人とも身奇麗で品がある。ゆったりと煙草をくゆらせながら、静かに何か話をしている。その話し振りから、二人は古くからの親しい友人同士なのだろうとうかがえる。周囲にひと気はなくとても静かだ。ちり、ちりり。男が煙草を吸うたびに、小さく燃える火種の音が際立つ。
突然頭に浮かんだ光景。昔観た映画の一幕だ。何という題の映画だったか、どんなお話だったか、まるで思い出せない。それどころか、この場面が思い出されたこと自体が奇跡なのではないかというくらい、脳味噌の隅に追いやられていた記憶だった。なぜいまになって思い出したのかわからない。一度意識すると妙に気になる。何度も同じ情景を頭の中で反芻した。
風呂から上がってビールを飲んでいるときもあの映像が気になる。もう一度観たいと思うようになっていた。でも情報が少なすぎて詳細を知るすべがない。何か思い出せることはないかと、頭の中をぐるぐるとかき回してみる。小さな液晶画面と簡易テーブルのイメージがふと湧いて出た。ああそうか、飛行機で観たんだ。旅行にいったときにたまたま目にした映画だった。どこへいったときだろう。十代の頃か、二十歳を過ぎた後か、いずれにせよ、ずいぶん昔のことのような感じがする。そうなるとこの映画の題名を思い出すのは難しそうだ。もともと知らない可能性だってある。題名から探るのはあきらめよう。
もっと思い出せることがないか、また頭の芯をぐりぐりやってみる。 後部座席の左側に座っていた男は、笑顔がチャーミングな禿頭の小男だった気がしてきた。ハリウッド映画でよく見る名脇役の俳優だ。名前が出てこないのでインターネットで「ツインズ シュワルツネッガー」と検索したらすぐにわかった。そうそう、ダニー・デヴィートだ。出ている役者がわかれば、案外簡単に何という作品だったかわかるかもしれない。今度は「ダニー・デヴィート」と検索してみる。出演作品のリストに思い当たるタイトルはない。あらすじも片っ端から調べたが、それらしい作品は出てこない。ダニー・デヴィートは出演していなかったということなのか。
人の記憶なんて曖昧だ。少なくとも僕の記憶はまったくあてにならない。ただ忘れるだけならまだしも、ときには自分の都合のいいように、事実をねじ曲げて覚えていることだってある。信用しては駄目だ。ダニー・デヴィートが出演していた気がしたが、本当に出ていたかなんてわかりやしない。そう考えはじめたら、いろいろなことが疑わしく思えてきた。僕がとうもろこし畑と思い込んでいる場所は、さとうきび畑だったかもしれない。雑木林かもしれないし、野原の可能性だってある。二人が座っていたのは高級車の後部座席ではなく、トラックの運転席だった可能性も考慮したい。だとするなら身奇麗な服装ではなく、作業着姿だったのかもしれない。
どんどん自分の記憶に自信が持てなくなり、さっき髪をゆすいでいたときに鮮明だったイメージはいま、まったく霞んでいる。もはやこの映画を機内で観たのかどうか、いや、そもそもそんな映像を本当に観たのかどうかさえ、怪しくなってしまった。ああ、頭が痛くなってきた。考えれば考えるほど、もう一度観たいという思いは強くなる。あの穏やかで眠気を誘う美しい映像を、僕は再び目にすることができるのだろうか。
突然頭に浮かんだ光景。昔観た映画の一幕だ。何という題の映画だったか、どんなお話だったか、まるで思い出せない。それどころか、この場面が思い出されたこと自体が奇跡なのではないかというくらい、脳味噌の隅に追いやられていた記憶だった。なぜいまになって思い出したのかわからない。一度意識すると妙に気になる。何度も同じ情景を頭の中で反芻した。
風呂から上がってビールを飲んでいるときもあの映像が気になる。もう一度観たいと思うようになっていた。でも情報が少なすぎて詳細を知るすべがない。何か思い出せることはないかと、頭の中をぐるぐるとかき回してみる。小さな液晶画面と簡易テーブルのイメージがふと湧いて出た。ああそうか、飛行機で観たんだ。旅行にいったときにたまたま目にした映画だった。どこへいったときだろう。十代の頃か、二十歳を過ぎた後か、いずれにせよ、ずいぶん昔のことのような感じがする。そうなるとこの映画の題名を思い出すのは難しそうだ。もともと知らない可能性だってある。題名から探るのはあきらめよう。
もっと思い出せることがないか、また頭の芯をぐりぐりやってみる。 後部座席の左側に座っていた男は、笑顔がチャーミングな禿頭の小男だった気がしてきた。ハリウッド映画でよく見る名脇役の俳優だ。名前が出てこないのでインターネットで「ツインズ シュワルツネッガー」と検索したらすぐにわかった。そうそう、ダニー・デヴィートだ。出ている役者がわかれば、案外簡単に何という作品だったかわかるかもしれない。今度は「ダニー・デヴィート」と検索してみる。出演作品のリストに思い当たるタイトルはない。あらすじも片っ端から調べたが、それらしい作品は出てこない。ダニー・デヴィートは出演していなかったということなのか。
人の記憶なんて曖昧だ。少なくとも僕の記憶はまったくあてにならない。ただ忘れるだけならまだしも、ときには自分の都合のいいように、事実をねじ曲げて覚えていることだってある。信用しては駄目だ。ダニー・デヴィートが出演していた気がしたが、本当に出ていたかなんてわかりやしない。そう考えはじめたら、いろいろなことが疑わしく思えてきた。僕がとうもろこし畑と思い込んでいる場所は、さとうきび畑だったかもしれない。雑木林かもしれないし、野原の可能性だってある。二人が座っていたのは高級車の後部座席ではなく、トラックの運転席だった可能性も考慮したい。だとするなら身奇麗な服装ではなく、作業着姿だったのかもしれない。
どんどん自分の記憶に自信が持てなくなり、さっき髪をゆすいでいたときに鮮明だったイメージはいま、まったく霞んでいる。もはやこの映画を機内で観たのかどうか、いや、そもそもそんな映像を本当に観たのかどうかさえ、怪しくなってしまった。ああ、頭が痛くなってきた。考えれば考えるほど、もう一度観たいという思いは強くなる。あの穏やかで眠気を誘う美しい映像を、僕は再び目にすることができるのだろうか。
20130319
A Pepper Mill
去年イスタンブルで買ったペッパーミルがさっき出てきた。帰った直後にリュックから放り出したままになっていて、存在自体を忘れていた。一目惚れして買ったはずの品物を、あっさり忘れてしまういい加減さにあきれるばかりだ。
イスタンブルの街をあてもなく歩いていると、合羽橋のような食器や調理器具の問屋街に迷い込んだ。その一角、金物を専門に扱う小さな店で、このペッパーミルを見つけた。筒状の真鍮製で、片手で握るとちょうど収まるくらいの太さと長さ。頭に付いている華奢なクランク型のハンドルを指でつまんで回すと胡椒が挽ける仕組みだ。受け皿を兼ねる末広がりの台座には花柄の彫刻が施されている。派手ではないが丁寧なつくりで存在感を放つ。古くから交通の要所として栄え、東西の多彩なスパイスが集まったイスタンブルで、美しいペッパーミルと出会ったら買わない手はない。
僕はいつも成田の税関で止められる。係官たちがどんな基準で尋問する相手を選ぶのか知らないが、どうやら僕はその条件を満たしているらしい。どこにいったのか、何をしにいったのか、だれといったのか、と根掘り葉掘り聞かれる。そして必ず荷物を開けて見せろと指示される。イスタンブルから戻ったときもそうだった。若く実直そうな女性の係官にパスポートを手渡すと質問攻めにあい、リュックを開けさせられた。着古した洋服にまぎれたペッパーミルを目にした瞬間、彼女の表情が変わった気がした。高揚しているような、緊張しているような、笑っているような、一瞬だけそんな顔を見せた。
「これはなんですか?」
彼女が僕に聞いた。
「ペッパーミルです」
彼女の表情は硬い。
「ペッパー…?なんですか?私にわかるように説明してください」
「えっと…ペッパーミルです。胡椒を挽く…」
「???」
「ほら、ここをこうクルクル回すと下から胡椒が出てきます」
「ああ!胡椒を挽く道具ですか」
「そうそう、そうです。」
「ご協力ありがとうございました。結構です」
彼女は“いってよし”という顔をして見せ、僕は解放された。
日本随一の国際空港で働き、さまざまな国からの訪問者と話をする機会が多いはずの彼女が、なぜペッパーミルという簡単な言葉を理解しなかったのか不思議だったが、そのときは気に留めず、いわれるがまま指示に従った。いま思うと、洗濯物の中からペッパーミルが出てきたときの緊迫した雰囲気は異様だった。彼女はこの真鍮製の道具をほかの何かと思い込んだのではないか。もしそれが薬物を吸入する器具に見えたとすれば、にわかに緊張感が高まるのもうなずける。ぱっと見た印象は、ギャング映画なんかで悪党がマリファナをぷかぷかやっているシーンに出てくる道具に似ていないこともない。生真面目な彼女にしてみれば、一人旅の怪しげな男の荷物から怪しげな品が出てきたのだ。見逃す訳にはいかないだろう。ともすると入職して初めての大捕り物になりかねない事案に緊張し、少しワクワクもしたのかもしれない。そう考えて思い返すと、僕を解放したときの彼女はほっとしたような、がっかりしたような、複雑な顔でいたような気がしてきた。そうか、僕は違法薬物を密輸している疑いをかけられていたのか。まさかペッパーミルひとつで犯罪者扱いをされるなんて。
イスタンブルの街をあてもなく歩いていると、合羽橋のような食器や調理器具の問屋街に迷い込んだ。その一角、金物を専門に扱う小さな店で、このペッパーミルを見つけた。筒状の真鍮製で、片手で握るとちょうど収まるくらいの太さと長さ。頭に付いている華奢なクランク型のハンドルを指でつまんで回すと胡椒が挽ける仕組みだ。受け皿を兼ねる末広がりの台座には花柄の彫刻が施されている。派手ではないが丁寧なつくりで存在感を放つ。古くから交通の要所として栄え、東西の多彩なスパイスが集まったイスタンブルで、美しいペッパーミルと出会ったら買わない手はない。
僕はいつも成田の税関で止められる。係官たちがどんな基準で尋問する相手を選ぶのか知らないが、どうやら僕はその条件を満たしているらしい。どこにいったのか、何をしにいったのか、だれといったのか、と根掘り葉掘り聞かれる。そして必ず荷物を開けて見せろと指示される。イスタンブルから戻ったときもそうだった。若く実直そうな女性の係官にパスポートを手渡すと質問攻めにあい、リュックを開けさせられた。着古した洋服にまぎれたペッパーミルを目にした瞬間、彼女の表情が変わった気がした。高揚しているような、緊張しているような、笑っているような、一瞬だけそんな顔を見せた。
「これはなんですか?」
彼女が僕に聞いた。
「ペッパーミルです」
彼女の表情は硬い。
「ペッパー…?なんですか?私にわかるように説明してください」
「えっと…ペッパーミルです。胡椒を挽く…」
「???」
「ほら、ここをこうクルクル回すと下から胡椒が出てきます」
「ああ!胡椒を挽く道具ですか」
「そうそう、そうです。」
「ご協力ありがとうございました。結構です」
彼女は“いってよし”という顔をして見せ、僕は解放された。
日本随一の国際空港で働き、さまざまな国からの訪問者と話をする機会が多いはずの彼女が、なぜペッパーミルという簡単な言葉を理解しなかったのか不思議だったが、そのときは気に留めず、いわれるがまま指示に従った。いま思うと、洗濯物の中からペッパーミルが出てきたときの緊迫した雰囲気は異様だった。彼女はこの真鍮製の道具をほかの何かと思い込んだのではないか。もしそれが薬物を吸入する器具に見えたとすれば、にわかに緊張感が高まるのもうなずける。ぱっと見た印象は、ギャング映画なんかで悪党がマリファナをぷかぷかやっているシーンに出てくる道具に似ていないこともない。生真面目な彼女にしてみれば、一人旅の怪しげな男の荷物から怪しげな品が出てきたのだ。見逃す訳にはいかないだろう。ともすると入職して初めての大捕り物になりかねない事案に緊張し、少しワクワクもしたのかもしれない。そう考えて思い返すと、僕を解放したときの彼女はほっとしたような、がっかりしたような、複雑な顔でいたような気がしてきた。そうか、僕は違法薬物を密輸している疑いをかけられていたのか。まさかペッパーミルひとつで犯罪者扱いをされるなんて。
20130316
I noticed you had been my longtime friend when you left me.
ずいぶん髪が伸びた。どのくらいといえばいいか。世間一般には「サラリーマン失格」という程度。ずっと短髪だった。大学生のときは丸坊主だったし、その後も月に一度は散髪をして短くしていた。だがこの1年あまりはまったく髪に鋏を入れていない。
このところよく女性に「どうして髪を伸ばしているの?」と聞かれる。彼女たちは別になぜ僕が髪を伸ばしているのかを知りたい訳ではない。「短くした方がいいよ」と優しく諭してくれているのだ。ところが僕は、なじみの美容師が突然店を辞めて散髪するところがなくなってしまったからだと、あえてとんちんかんな返事をする。彼女たちのアドバイスに気づかないふりをしてまで、髪を伸ばさなければならない理由がある。
ここ数年抜け毛の量がすごい。最近は頭を手で触ると、頭頂部と側頭部で密度が違うのがわかる。つむじの辺りの毛が明らかに少なくなっている。しばらくは気のせいだと自分に言い聞かせてきたが、もう無理だ。認めなければいけない。僕は禿げはじめている。
僕の父は50歳を過ぎた頃から徐々に額が広くなりだした。65歳になったいま、彼はまだデコッパチという格好で、禿と呼ぶには時期尚早だ。父方の祖父は僕が物心ついたときにはもう立派な禿頭だった。父と同じように額から広がるタイプの禿だった。一方で母方の祖父も禿げていた。頭頂部から広がったことが伺える形の禿だった。そしていま、つくづく思い思い返されるのは母方の伯父のことだ。僕が小学生だったとき彼はおそらく40代。十分に禿と呼べるくらい頭頂部の毛髪が薄かった。
たくさんの人が抱いているであろう禿についてのイメージが僕にもあった。つまり「父方の家系の禿が遺伝する」と信じていたのだ。だから僕は、当然額から禿げるものと思っていた。そして、禿げはじめるのは父と同じように50代を迎えてからだろう、とのんきに構えていた。現実は違った。30代でつむじから禿ている。ものの本によると、母方の祖父と伯父がともに禿げている場合、その禿は1/4の確率で引き継がれるそうだ。幼い頃遥か大人に見えた伯父の年齢は、いま僕の目と鼻の先に差し迫っている。残された時間は少ない。ずっと長髪へのあこがれはあったけれど、いつでもできると思っていたし、長くなるまでが億劫に感じられて伸ばさずにいた。でも「いつでもできる」は幻想だった。伯父の道程を追いかけている僕にとっては「いましかできない」のだ。それに気づき、あわてて髪を伸ばして今日にいたる。駄目になるまでのわずかなひととき、長髪を楽しみたい。だいじょうぶだぁ時代の志村けんの心持ちである。どうか暖かく見守ってほしい。
この間ひさしぶりに会った友だちが、僕の髪を見て「スケベなイタリア人みたいだね」といった。長い髪をほめてくれる人もいるみたいだ。
このところよく女性に「どうして髪を伸ばしているの?」と聞かれる。彼女たちは別になぜ僕が髪を伸ばしているのかを知りたい訳ではない。「短くした方がいいよ」と優しく諭してくれているのだ。ところが僕は、なじみの美容師が突然店を辞めて散髪するところがなくなってしまったからだと、あえてとんちんかんな返事をする。彼女たちのアドバイスに気づかないふりをしてまで、髪を伸ばさなければならない理由がある。
ここ数年抜け毛の量がすごい。最近は頭を手で触ると、頭頂部と側頭部で密度が違うのがわかる。つむじの辺りの毛が明らかに少なくなっている。しばらくは気のせいだと自分に言い聞かせてきたが、もう無理だ。認めなければいけない。僕は禿げはじめている。
僕の父は50歳を過ぎた頃から徐々に額が広くなりだした。65歳になったいま、彼はまだデコッパチという格好で、禿と呼ぶには時期尚早だ。父方の祖父は僕が物心ついたときにはもう立派な禿頭だった。父と同じように額から広がるタイプの禿だった。一方で母方の祖父も禿げていた。頭頂部から広がったことが伺える形の禿だった。そしていま、つくづく思い思い返されるのは母方の伯父のことだ。僕が小学生だったとき彼はおそらく40代。十分に禿と呼べるくらい頭頂部の毛髪が薄かった。
たくさんの人が抱いているであろう禿についてのイメージが僕にもあった。つまり「父方の家系の禿が遺伝する」と信じていたのだ。だから僕は、当然額から禿げるものと思っていた。そして、禿げはじめるのは父と同じように50代を迎えてからだろう、とのんきに構えていた。現実は違った。30代でつむじから禿ている。ものの本によると、母方の祖父と伯父がともに禿げている場合、その禿は1/4の確率で引き継がれるそうだ。幼い頃遥か大人に見えた伯父の年齢は、いま僕の目と鼻の先に差し迫っている。残された時間は少ない。ずっと長髪へのあこがれはあったけれど、いつでもできると思っていたし、長くなるまでが億劫に感じられて伸ばさずにいた。でも「いつでもできる」は幻想だった。伯父の道程を追いかけている僕にとっては「いましかできない」のだ。それに気づき、あわてて髪を伸ばして今日にいたる。駄目になるまでのわずかなひととき、長髪を楽しみたい。だいじょうぶだぁ時代の志村けんの心持ちである。どうか暖かく見守ってほしい。
この間ひさしぶりに会った友だちが、僕の髪を見て「スケベなイタリア人みたいだね」といった。長い髪をほめてくれる人もいるみたいだ。
20130314
Worthlessmen Blues
大阪の四天王寺にいた。聖徳太子が建立した、日本で最も古い仏教寺院のひとつとされる寺で、友だちと待ち合わせをしていた。どんよりと曇り底冷えする夕方、拝観時間を過ぎていてお堂に参ることはできなかったので、境内の隅で友だちがくるのを体を揺すりながら待った。
しばらくすると、一足先に寺に着いてお参りをしていた友だちが出てきて、大阪での旅の仲間が全員揃った。総勢10名あまり。ひさしぶりの再会だったが挨拶もそこそこに、まずはどこか店に入ろうということになった。とにかく寒いので立ち止まっていたくなかったのだ。とはいうものの、この界隈にはたこ焼き屋も串かつ屋も見当たらない。通天閣を目印に新世界方面へ歩きはじめた。あまりの寒さに皆からだがこわばって口数が少ない。四天王寺の山門を出た辺りで友だちのひとりがぼそっとつぶやいた。
「四天王ってさ、ろくでなしブルースに出てきたね」
別の友だちが応える。
「あったね。浅草の薬師寺と渋谷の鬼塚と…あとだれだっけ」
「……」
「そういや、ろくでなしブルースに大阪編ってのもあったな」
「あぁ。修学旅行のやつだ」
「そう修学旅行。前田さんの昔の彼女が登場するんだよね、ポニーテールの」
「「「「ポニーテール!」」」」
「ポニーテール…懐かしい響きだなあ」
「いいよね、ポニーテール」
「うん、いいよ、ポニーテール」
「『ポニーテール』って言葉、ろくでなしブルースで知ったよね」
「そうそう、ジャンプで読んで知ったんだ」
僕たちはかつて、『ランチコート』という言葉もろくでなしブルースから学んだ。
しばらくすると、一足先に寺に着いてお参りをしていた友だちが出てきて、大阪での旅の仲間が全員揃った。総勢10名あまり。ひさしぶりの再会だったが挨拶もそこそこに、まずはどこか店に入ろうということになった。とにかく寒いので立ち止まっていたくなかったのだ。とはいうものの、この界隈にはたこ焼き屋も串かつ屋も見当たらない。通天閣を目印に新世界方面へ歩きはじめた。あまりの寒さに皆からだがこわばって口数が少ない。四天王寺の山門を出た辺りで友だちのひとりがぼそっとつぶやいた。
「四天王ってさ、ろくでなしブルースに出てきたね」
別の友だちが応える。
「あったね。浅草の薬師寺と渋谷の鬼塚と…あとだれだっけ」
「……」
「そういや、ろくでなしブルースに大阪編ってのもあったな」
「あぁ。修学旅行のやつだ」
「そう修学旅行。前田さんの昔の彼女が登場するんだよね、ポニーテールの」
「「「「ポニーテール!」」」」
「ポニーテール…懐かしい響きだなあ」
「いいよね、ポニーテール」
「うん、いいよ、ポニーテール」
「『ポニーテール』って言葉、ろくでなしブルースで知ったよね」
「そうそう、ジャンプで読んで知ったんだ」
僕たちはかつて、『ランチコート』という言葉もろくでなしブルースから学んだ。
20130312
Sauce
「休みの日はなにしてるの?」同僚によく聞かれる。「なんもしてないっす」と僕は答える。すると決まって同僚は気まずそうな顔をする。僕は人に隠さなければならないような後ろめたい休日を過ごしている訳ではないし、その場の会話を避けるつもりもない。ただ何もしていないのだ。充実した休日を送っていないせいで 、会話が途絶え居心地の悪い思いをさせてしまって、申し訳ない気持ちになる。できることなら同僚と楽しく会話したいけれど、何もしていない休日をテーマに、あれこれと話をするほどの話術が僕にはないので、それ以上弾ませることができない。
冬は元気が出ない。何もする気が起きない。だから休日には何もしない。もちろん誰かに誘われれば喜んで出かけるが、予定のない日は断固何もしない。前日までにおかずや酒のアテになりそうな食材を買い込み、準備を整えて引きこもる。気に入りのソファーに身をゆだねて根を生やす。トイレに立つのも億劫だ。映画や音楽を垂れ流しにして、昼も夜もなくぼんやりする。寒い時期、これが最高に幸せな過ごし方だ。
引きこもりの事前準備がなおざりなまま休日を迎えてしまうこともある。休みを半分も残して食料が尽きてしまうのだ。買い物には出かけたくないので、そんなときは出前を取る。近所のとんかつ屋に弁当を頼むことが多い。揚げたてのとんかつにサラダやみそ汁をつけて持ってきてくれる。さほど安くはないが、美味しいしご飯の大盛りが無料なのでとても気に入っている。
贔屓にしているとんかつ屋のことを、あまり悪くいいたくはない。でも弁当に添えられるソースの量については、難ありといわざるを得ない。蓋のついた透明のプラスティック容器に入れられたソースが、いつもあまりに少ないのだ。一切れずつソースに浸して食べたいが、半分も食べる頃にソースはなくなってしまう。とんかつに直接かけてもずいぶん足りない。これまで何度か電話で注文するときに、ソースを多めに入れてほしい、とおねがいをした。そのたびに注文係のアルバイト君は「ソース多めですね!わかりました!」と元気よく返事をしてくれたが、たっぷりのソースが添えられることは一度もなかった。もはや同じおねがいはできない。ソースくらい自分で買ってくればいい、という声も聞こえてきそうだ。ところがこちらは断固引きこもると誓いを立ててしまっている。外出する訳にはいかない。徒歩1分のコンビニに、ソースを買いにいくなど言語道断だ。仕方なく僕は現状を甘んじて受け入れ、ちびりちびりとソースを節約しながらとんかつを食べていた。
あるときいつもと同じように、ソースの少なさに憤りながら美味しいとんかつを食べていると、誰だったかお笑い芸人が「とんかつに醤油をかけて食べるのが旨い」と話すのがラジオから聞こえてきた。勝烈庵の勝烈定食で育ち、ソースをたっぷりかけて食べるのが当たり前と認識していた僕にとって、その言葉は衝撃だった。まさかとんかつにソース以外の調味料を使う人間がいるなんて。味を想像できない。とんかつとソースは対の関係で、いわばタイヤとホイールのようなものだ。果たしてソースをかけないとんかつを、とんかつと呼べるのか。
もしもソースの代わりに醤油を使って、とんかつを美味しく食べることができれば、ずっと悩まされ続け、いままさに直面している「ソースが足りない」問題は解決を見るかもしれない。しかし30代も半ばを迎え、柔軟性が失われつつある僕にとって、とんかつに醤油を垂らすのはとても勇気がいることだ。長い年月をかけ築いた、僕の中のとんかつ像が崩壊しないとも限らない。僕はとんかつをしばらく見つめていた。そしてひらめいた。「あいだをとればいいじゃないか!」
間を取る。自分と相容れない他者を否定せず、互いに譲歩して穏便に問題を回避するために必要なスキル。組織の一員として働く中で培った。若い頃にはできなかった発想だ。歳を重ねるのも悪くない。とんかつを醤油で食べることは難しいが、間を取ることならできそうだ。ソースの入った容器に醤油を注ぎ箸で混ぜた。ソースと醤油の割合は3:2くらい。とんかつを一切れ浸して食べてみる。旨い。辛子を溶かすともっと旨い。
冬は元気が出ない。何もする気が起きない。だから休日には何もしない。もちろん誰かに誘われれば喜んで出かけるが、予定のない日は断固何もしない。前日までにおかずや酒のアテになりそうな食材を買い込み、準備を整えて引きこもる。気に入りのソファーに身をゆだねて根を生やす。トイレに立つのも億劫だ。映画や音楽を垂れ流しにして、昼も夜もなくぼんやりする。寒い時期、これが最高に幸せな過ごし方だ。
引きこもりの事前準備がなおざりなまま休日を迎えてしまうこともある。休みを半分も残して食料が尽きてしまうのだ。買い物には出かけたくないので、そんなときは出前を取る。近所のとんかつ屋に弁当を頼むことが多い。揚げたてのとんかつにサラダやみそ汁をつけて持ってきてくれる。さほど安くはないが、美味しいしご飯の大盛りが無料なのでとても気に入っている。
贔屓にしているとんかつ屋のことを、あまり悪くいいたくはない。でも弁当に添えられるソースの量については、難ありといわざるを得ない。蓋のついた透明のプラスティック容器に入れられたソースが、いつもあまりに少ないのだ。一切れずつソースに浸して食べたいが、半分も食べる頃にソースはなくなってしまう。とんかつに直接かけてもずいぶん足りない。これまで何度か電話で注文するときに、ソースを多めに入れてほしい、とおねがいをした。そのたびに注文係のアルバイト君は「ソース多めですね!わかりました!」と元気よく返事をしてくれたが、たっぷりのソースが添えられることは一度もなかった。もはや同じおねがいはできない。ソースくらい自分で買ってくればいい、という声も聞こえてきそうだ。ところがこちらは断固引きこもると誓いを立ててしまっている。外出する訳にはいかない。徒歩1分のコンビニに、ソースを買いにいくなど言語道断だ。仕方なく僕は現状を甘んじて受け入れ、ちびりちびりとソースを節約しながらとんかつを食べていた。
あるときいつもと同じように、ソースの少なさに憤りながら美味しいとんかつを食べていると、誰だったかお笑い芸人が「とんかつに醤油をかけて食べるのが旨い」と話すのがラジオから聞こえてきた。勝烈庵の勝烈定食で育ち、ソースをたっぷりかけて食べるのが当たり前と認識していた僕にとって、その言葉は衝撃だった。まさかとんかつにソース以外の調味料を使う人間がいるなんて。味を想像できない。とんかつとソースは対の関係で、いわばタイヤとホイールのようなものだ。果たしてソースをかけないとんかつを、とんかつと呼べるのか。
もしもソースの代わりに醤油を使って、とんかつを美味しく食べることができれば、ずっと悩まされ続け、いままさに直面している「ソースが足りない」問題は解決を見るかもしれない。しかし30代も半ばを迎え、柔軟性が失われつつある僕にとって、とんかつに醤油を垂らすのはとても勇気がいることだ。長い年月をかけ築いた、僕の中のとんかつ像が崩壊しないとも限らない。僕はとんかつをしばらく見つめていた。そしてひらめいた。「あいだをとればいいじゃないか!」
間を取る。自分と相容れない他者を否定せず、互いに譲歩して穏便に問題を回避するために必要なスキル。組織の一員として働く中で培った。若い頃にはできなかった発想だ。歳を重ねるのも悪くない。とんかつを醤油で食べることは難しいが、間を取ることならできそうだ。ソースの入った容器に醤油を注ぎ箸で混ぜた。ソースと醤油の割合は3:2くらい。とんかつを一切れ浸して食べてみる。旨い。辛子を溶かすともっと旨い。
20130310
Steve Buscemi
オールズモビルのカトラス・シエラという車。FF、2,500cc、直4、アメリカ車の特徴をすべて切り捨てたようなアメリカ車だ。80年代、高性能な日本車の人気におされ、アメリカ車は売れず困窮していた。日本車を真似れば人気を取り戻せるのでは、と安直に生産された駄作だった。田舎の中流層にはそこそこ売れたが、ビジネスとしては失敗、その後オールズモビルというブランドは消滅してしまう。
弟に「ファーゴ」という映画を勧められた。彼の推す映画はいつもおもしろい。雪に包まれたアメリカの田舎町、自動車販売店で働く冴えない男が金に困り、偽装誘拐をして身代金をかすめ取ろうとするお話。全編を通してぼやっとした時間が流れ、センセーショナルな殺人が次々に起こるのに、悲壮感や切迫感がまったくない。退屈な夜中にうとうとしながら眺めるのにいい。ちんけな悪党に扮するスティーヴ・ブシェミの存在感がすばらしかった。彼の卑しく下品で狡猾な振る舞いは一級品だ。鞄を雪に埋めるシーンは屈指の名場面だと思う。「デスペラード」で出会って以来彼のファンだが、この作品でさらに好きになった。
弟はブシェミが駆る車に惹かれた。どこのなんという車かわからないので、僕に映画を観て車種名を教えてほしいと頼んだ。その車がカトラス・シエラだった。弟がこの車を欲しくなる気持ちは、とてもよくわかる。どこをどう見てもかっこいい部分がなく野暮ったい。燃費が悪くパワーもない。重く遅い。でも肩の力が抜けていて気負わない感じがいい。ゆったりとシートに背中を預け、田舎道をのんびり走りたい。
残念ながら日本でこの車に乗るのは難しそうだ。この車が作られていた当時、日本はバブルでアメ車ブームだった。多くのマッスルカーやフルサイズセダンが輸入されたが、この手の親父セダンは入ってきていない。アメ車らしからぬアメ車は日本のマニアにも評価されなかったのだ。どうしても欲しければ、アメリカ本国に探しに行って個人輸入し、日本の法規に合わせて調整と整備をしなければならない。乗りはじめた後も部品の確保と故障の対応に追われはずだ。ゆったりのんびりは夢のまた夢、常に眉間にしわを寄せ、神経を尖らせて乗るはめになる。ブシェミを気取るなら、カトラスを輸入するより自分がアメリカの田舎に移住して、適当な中古車に乗る方が手っ取り早そうだ。
ブシェミのことを考えていたらまた「デスペラード」を観たくなった。寝る前にDVDをかけよう。僕は「デスペラード」の冒頭、彼が酒場で語る場面がとても好きだ。
弟に「ファーゴ」という映画を勧められた。彼の推す映画はいつもおもしろい。雪に包まれたアメリカの田舎町、自動車販売店で働く冴えない男が金に困り、偽装誘拐をして身代金をかすめ取ろうとするお話。全編を通してぼやっとした時間が流れ、センセーショナルな殺人が次々に起こるのに、悲壮感や切迫感がまったくない。退屈な夜中にうとうとしながら眺めるのにいい。ちんけな悪党に扮するスティーヴ・ブシェミの存在感がすばらしかった。彼の卑しく下品で狡猾な振る舞いは一級品だ。鞄を雪に埋めるシーンは屈指の名場面だと思う。「デスペラード」で出会って以来彼のファンだが、この作品でさらに好きになった。
弟はブシェミが駆る車に惹かれた。どこのなんという車かわからないので、僕に映画を観て車種名を教えてほしいと頼んだ。その車がカトラス・シエラだった。弟がこの車を欲しくなる気持ちは、とてもよくわかる。どこをどう見てもかっこいい部分がなく野暮ったい。燃費が悪くパワーもない。重く遅い。でも肩の力が抜けていて気負わない感じがいい。ゆったりとシートに背中を預け、田舎道をのんびり走りたい。
残念ながら日本でこの車に乗るのは難しそうだ。この車が作られていた当時、日本はバブルでアメ車ブームだった。多くのマッスルカーやフルサイズセダンが輸入されたが、この手の親父セダンは入ってきていない。アメ車らしからぬアメ車は日本のマニアにも評価されなかったのだ。どうしても欲しければ、アメリカ本国に探しに行って個人輸入し、日本の法規に合わせて調整と整備をしなければならない。乗りはじめた後も部品の確保と故障の対応に追われはずだ。ゆったりのんびりは夢のまた夢、常に眉間にしわを寄せ、神経を尖らせて乗るはめになる。ブシェミを気取るなら、カトラスを輸入するより自分がアメリカの田舎に移住して、適当な中古車に乗る方が手っ取り早そうだ。
ブシェミのことを考えていたらまた「デスペラード」を観たくなった。寝る前にDVDをかけよう。僕は「デスペラード」の冒頭、彼が酒場で語る場面がとても好きだ。
20130308
An Oyster Attacks...
友だちが仕事でフランスとイタリアを巡っている。パリでの写真がSNSにポストされていた。山と盛られた牡蠣や蟹や海老の写真。冬のパリ、街の角々にある食堂では、生の牡蠣を食べさせる。ゴム長靴とゴムエプロンをまとった恰幅のいいおじさんが、店先で鼻歌まじりに牡蠣を剥いている。3月とはいえまだ寒いはずのパリでは、よく太り身の詰まった牡蠣を味わえるにちがいない。
去年の暮れ、別の友だちが仕事でイギリスへいった。ロンドンで催されるイベントに出展したあと、数週間かけて付き合いのあるイギリス各地の旅行代理店に挨拶回りをするというのがミッションだ。日本の旅行代理店で、イギリスからの観光客のコーディネートをしている彼女は、長年電話やメールでやり取りをしてきたが未だ見ぬ仕事のパートナーたちと対面するのを、楽しみにしていた。いわば「ご褒美旅行」の出張だ。日本からのお土産をたくさん携えてイギリスに向かった。
ロンドンでのイベントが終わり、現地の社員から食事に招かれオイスターバーにいった。彼女は牡蠣が駄目だ。しかし「ロンドンの牡蠣は世界一だ」とばかりに笑顔で勧められるのを無下にはできず、いくつか箸をつけた。牡蠣は不味いが楽しい夕食会を終え宿に帰ると、それからが地獄だった。朝まで戻し下し続けた。翌日になっても一向によくならず、苦しみは続く。病院の救急病棟で点滴を受けてもあまり変わらなかった。
仕方なく東京のオフィスに状況を報告した。案の定「挨拶回りはすべてキャンセルし、すぐに戻れ」との指示が返ってくる。泣きながら各地の旅行代理店に詫びのメールを送り、その後はひたすら宿のベッドに突っ伏して、体調がよくなるのを待った。数日後になんとか回復の兆しを見せたので、帰りの飛行機の切符を探したが、手頃なものが見つからない。目が飛び出るくらい高く、香港経由でやたらと時間がかかる便の切符をどうにか手配し、げっそりとやつれたまま帰国した。各地の仲間に渡すつもりだった日本のお土産は、全部ロンドンの宿に置いてきた。「牡蠣なんて二度と食べない」と彼女。そりゃそうだ。
いまパリにいる友だちのお腹の具合はどんなだろう。新しい写真がポストされている。 大きな銀色のポットと白いコーヒーカップ、それと牛乳の写真だ。フランス人は朝にものすごい量のカフェオレを飲む。元気そうでなにより。
去年の暮れ、別の友だちが仕事でイギリスへいった。ロンドンで催されるイベントに出展したあと、数週間かけて付き合いのあるイギリス各地の旅行代理店に挨拶回りをするというのがミッションだ。日本の旅行代理店で、イギリスからの観光客のコーディネートをしている彼女は、長年電話やメールでやり取りをしてきたが未だ見ぬ仕事のパートナーたちと対面するのを、楽しみにしていた。いわば「ご褒美旅行」の出張だ。日本からのお土産をたくさん携えてイギリスに向かった。
ロンドンでのイベントが終わり、現地の社員から食事に招かれオイスターバーにいった。彼女は牡蠣が駄目だ。しかし「ロンドンの牡蠣は世界一だ」とばかりに笑顔で勧められるのを無下にはできず、いくつか箸をつけた。牡蠣は不味いが楽しい夕食会を終え宿に帰ると、それからが地獄だった。朝まで戻し下し続けた。翌日になっても一向によくならず、苦しみは続く。病院の救急病棟で点滴を受けてもあまり変わらなかった。
仕方なく東京のオフィスに状況を報告した。案の定「挨拶回りはすべてキャンセルし、すぐに戻れ」との指示が返ってくる。泣きながら各地の旅行代理店に詫びのメールを送り、その後はひたすら宿のベッドに突っ伏して、体調がよくなるのを待った。数日後になんとか回復の兆しを見せたので、帰りの飛行機の切符を探したが、手頃なものが見つからない。目が飛び出るくらい高く、香港経由でやたらと時間がかかる便の切符をどうにか手配し、げっそりとやつれたまま帰国した。各地の仲間に渡すつもりだった日本のお土産は、全部ロンドンの宿に置いてきた。「牡蠣なんて二度と食べない」と彼女。そりゃそうだ。
いまパリにいる友だちのお腹の具合はどんなだろう。新しい写真がポストされている。 大きな銀色のポットと白いコーヒーカップ、それと牛乳の写真だ。フランス人は朝にものすごい量のカフェオレを飲む。元気そうでなにより。
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