友だちが沖縄に来て、僕の家に泊まっていた。彼がいる間はなるべく一緒に過ごしたいが、ずっと仕事を休むわけにもいかない。ある晩は夜勤だったので家の合鍵を渡した。近所で適当に夕飯をすませた後は、家でDVDでも観ようかなという彼に、自分の家と思って好きに過ごせばいいと告げて出勤した。
次の日の朝、仕事を終えて戻ると彼は寝ていた。とてもいい天気だ。せっかくの沖縄でこの天気を逃してはかわいそうだと思い、声をかけたが返ってくるのはいびきばかり。真っ赤な顔をした彼は、押しても突いても起きる気配がない。そして猛烈に酒臭い。彼のことは放っておくことにして、シャワーを浴びビールを飲んで僕も寝た。
目覚めると日が暮れていた。彼はまだ寝ている。声をかけたらむくりと起き、しばらくぼんやりしたあとに突然叫んだ。「一日無駄にした!」ようやく状況がわかったらしい。南部の海沿いをドライブしようと思っていたのにと嘆く。聞けば昨晩食事をした帰り道、バーからレゲエが聞こえたので、ちょっと飲もうと店に入ったのだという。そこで見知らぬ酔っぱらいたちと仲良くなり、朝まで一緒に飲み歩いたのだそうだ。旅のいい思い出ができてよかったじゃないと励ましても、彼はドライブ、ドライブとつぶやいて肩を落とす。昼間はとても天気がよかったと伝えると、泣きそうな顔をした。
さておき腹が減ったので、夕飯を食べに出た。腹が満たされると彼の機嫌はいくぶんよくなり、家に戻って酒を飲んだらご機嫌になった。幸せそうな彼は笑顔のまま、僕よりも先に寝た。お前なにしに来たんだよ。
朝起きたら友だちからメールが届いていた。いい耳鼻科を教えてほしいと。 どういうことだ。沖縄が好きで何度も来ている彼女は、この日にまた来るはずだった。僕は仕事の都合がつかず、今回は会えそうにないね、という話をしていた。耳鼻科になんの用があるんだろう。どうしたの?と返信すると、熱があって喉が痛むという回答。羽田にいて、もうすぐ搭乗するところだった。耳鼻科は那覇に着いてから空港の案内所で聞いてはどうか、と送って出勤した。
昼前に心配になって電話をかけた。空港近くの医院で診てもらったら、熱は40℃近くあり、扁桃腺炎と診断されて入院を強く勧められたという。知らないところに入院するのは不安だから、僕の病院に入れてほしいと頼まれた。そばにいた内科医に相談すると、すぐに来させろといってくれた。昼過ぎにやってきた彼女は思った以上に悪かった。頬がこけて目がくぼみ、死人のような顔だ。扁桃腺が大きく腫れて、ライトで照らしても喉の奥が見えない。あと少し腫れたら気道が塞がれて窒息する。血液検査の結果も悪く、いつショックを起こしてもおかしくないという状態。即入院になった。
点滴を受けて翌日には熱が落ち着き、顔色もよくなった。忙しいのに世話を焼かせやがって、となじったら「えー、だってぇー。」と返ってきた。よしよし、いつもの調子だ。その次の日にはもっとよくなり、暇だといってあちこちうろついていた。職場の入院患者と友だちが同じ空間にいる光景は変な感じだ。90過ぎのおじいちゃんと彼女が肩を並べて談話スペースのソファに座り、そろって口を開け、ぼんやり海を眺めているのを、笑わずにはいられなかった。
やがて扁桃腺の腫れが引き、痛みも和らいだ。本当はもっと炎症がよくなってから帰したいんだけど、とぼやきながら、主治医は彼女がもともと予約していた飛行機で帰れるように、早めに退院を許してくれた。かくして友だちは沖縄に来てすぐ入院し、退院してすぐ横浜に帰った。お前なにしに来たんだよ。
友だちが出張で沖縄に来た。帰りの切符の日付を後にずらし、休暇をとって数日こちらで過ごすのだそうだ。出張のあとに遊ばせてくれるなんていい会社じゃないか。仕事が片付いてから帰るまでの間、僕の家に泊めろという。断る理由はない。
夕方に待ち合わせて食事にいくことにした。 教科書通りの沖縄料理は仕事先のひとにご馳走になった、地元のひとが集まる店で食べたい、というので城間の「ピザハウス」にステーキを食べにいった。仕事から解放された彼は終始冗舌だった。食事を終えて家に来てからも酒を飲みながらしゃべり続けた。彼は都心で働くサラリーマン。結婚していて郊外にマンションを買ったばかりだ。その上奥さんはお腹が大きい。僕には想像できないほどの重責を背負って生きているはずだ。日常のストレスをつかの間忘れて、バカンス気分に浸りたいのだろう。高揚している彼がちょっとだけ鬱陶しく、翌朝は仕事なので早く寝たくもあったがおしゃべりにつきあった。
彼はインターネットで検索しながら、この休暇の計画を練りはじめた。美ら海にいきたい、斎場御嶽が魅力、海中道路もいい。ソーキそばが食べたい、タコライスも捨てがたい、A&Wはどうだ。候補ばかりがどんどん増えて、酔っぱらった彼の頭では収拾がつかなくなっていた。丑三つ時を迎えいよいよ眠たい僕は、話を切り上げようとひとつの提案をした。一番いきたい場所、一番やりたいことから順に潰していってはどうか。これは僕が旅行をするときにとる方法だ。旅はなにが起きるかわからない。計画通りに運ばないなんてことはざらだ。やりたいことを旅の後半にとっておくと、達成できないまま旅が終わって悔いが残ることがある。だから最初にピークが訪れるような計画がいい。「あの場所で旅のフィナーレを飾ろう」とか「美味しいものは最後にとっておこう」なんてやり方はよくない。彼はうんうん、なるほどと納得した様子で候補に順番をつけはじめた。ところがこれもなかなか定まらない。彼がおとなしくなるのはまだずいぶん先になりそうだ。僕は安眠をあきらめた。
翌朝僕は彼を起こさないようにそっと身支度をして仕事に出かけた。夕方に帰りしばらくすると彼も戻ってきた。充実した一日を過ごせたようでつやつやとした満面の笑顔だった。きょうは結局どこにいったの?と聞くと彼は元気いっぱいに答えた。「ソープランド!」お前なにしに来たんだよ。
20130624
20130621
The Pine Tree Mansion, at Paddies of God
帰省したときに、ひさしぶりの友だちと会うことにした。昔はよく一緒に深酒をした仲間だ、今度の再会でもぜひ飲みたい。ところがなかなか都合がつかず、会えるのは日中ということになってしまった。さて、明るいうちから酒を飲めるところは…、少し考えてひらめき、神田で会おうとメールを送った。
幼い頃、神田の交通博物館に連れていってもらうのが好きだった。本物の電車の運転席をそっくり移植したシュミレーターで運転士になりきったり、戦闘機のコックピットに入ってパイロットになりきったりできた。広大で精密なジオラマの中を走る鉄道模型を見つめていると、時間が経つのを忘れた。僕にとって夢の世界だった。
土曜日、午前中に幼稚園が終わると、そのまま父の運転する車で神田に向かう。博物館にいく前には決まって「まつや」で昼を食べた。大人の雰囲気が漂う老舗の蕎麦屋で、カレー南蛮や親子丼をひとりで全部食べきれることが当時の僕の自慢だった。自分も大人の一員のような気になれた。蕎麦打ちを見るのも楽しみだ。奥の小部屋で白い帽子に白衣、下駄履きのお兄さんが蕎麦を打っている。丸く練った生地を長い麺棒で伸ばし、粉を振って畳んでまた伸ばす。生地が薄く伸びると形を整え、板を添えて包丁で細く切る。トントントンと小気味いいリズム。丸い生地が細長い蕎麦になるまで、お兄さんの所作には一切無駄がなくスピーディだ。その手さばきがたまらなく格好良かった。
昼間に酒、と考えて「まつや」が浮かんだ。あそこにはいつも、焼き海苔や蒲鉾を肴に昼から飲んでいるおじさんたちがいたのを思い出したのだ。蕎麦屋で飲むなんて30代の僕らにはまだ早いとも思ったが、ちょっと背伸びがしたかった。
引き戸を開けて中に入ると「いらっしゃーい」と独特の節で迎えてくれる。およそ30年ぶりにやってきた思い出の店は、ずいぶん狭くなったみたいだった。それだけ僕のからだが大きくなったということか。卓と腰掛け、壁、天井、立派な柱時計はまったく変わらない。奥の蕎麦打ち場も昔のままだ。いまどき珍しくどの席でも煙草が吸えるようで、すべての卓に陶器の灰皿がすえられている。昼時は過ぎていたので混んではいない。通された席に座り、ビールの大瓶、焼き鳥、蕎麦がきを頼んだ。注文を聞くエプロン姿のお姉さんも昔と変わらない。
斜め向かいの席に、いかにもお金持ちというなりをした初老の夫婦がいた。夫が妻に蕎麦の食べ方について、講義をしているのが聞くともなく聞こえてくる。「蕎麦をつゆにじゃぶじゃぶつけるんじゃないよ、半分ほどをちょいとつけて一、気にすするのが粋なんだ。」「そんなに噛んじゃだめだ、蕎麦は喉越しが大事なのに。」美食家気取りの男性のたれる講釈が、あまりにも型通りでおかしかった。妻にしてみれば、ガミガミいわれながら食べる蕎麦は美味しくなかっただろうが。
美食家は帰り際、お姉さんに「蕎麦屋が煙草を許してはまずいんじゃないか?」と投げかけた。お姉さんが愛想笑いをしていると美食家は続ける。「煙草のせいで蕎麦の香りが…」いい終わらないうちにお姉さんが口を開いた。「あいすみません、うちは昔からこうさせてもらってまして。あいすみません。」笑顔ではあるが断固たる拒絶だった。
がらりと戸が開くと上下ジャージに草履という薄着の男性が「うー、さむさむ」と身をすくめて入ってきた。職人気質な江戸っ子という風情だ。角の席にいた別の客と顔なじみらしく、二言三言交わしてから奥の席へ向かった。男性が席に着くなり、お姉さんは銚子と猪口を差し出す。
「よお、ありがとさん。」
「どうします?」
「んー、きょうは冷えるから…」
「鍋焼き?」
「おう、それだ。うどんは柔らかくな。」
「あいよ。」
実にテンポよく簡潔なやり取りを終えると、男性は煙草に火をつけて旨そうに煙を吐き出した。それから酒を手酌し、アチチといいながら飲みはじめた。
幼い頃、神田の交通博物館に連れていってもらうのが好きだった。本物の電車の運転席をそっくり移植したシュミレーターで運転士になりきったり、戦闘機のコックピットに入ってパイロットになりきったりできた。広大で精密なジオラマの中を走る鉄道模型を見つめていると、時間が経つのを忘れた。僕にとって夢の世界だった。
土曜日、午前中に幼稚園が終わると、そのまま父の運転する車で神田に向かう。博物館にいく前には決まって「まつや」で昼を食べた。大人の雰囲気が漂う老舗の蕎麦屋で、カレー南蛮や親子丼をひとりで全部食べきれることが当時の僕の自慢だった。自分も大人の一員のような気になれた。蕎麦打ちを見るのも楽しみだ。奥の小部屋で白い帽子に白衣、下駄履きのお兄さんが蕎麦を打っている。丸く練った生地を長い麺棒で伸ばし、粉を振って畳んでまた伸ばす。生地が薄く伸びると形を整え、板を添えて包丁で細く切る。トントントンと小気味いいリズム。丸い生地が細長い蕎麦になるまで、お兄さんの所作には一切無駄がなくスピーディだ。その手さばきがたまらなく格好良かった。
昼間に酒、と考えて「まつや」が浮かんだ。あそこにはいつも、焼き海苔や蒲鉾を肴に昼から飲んでいるおじさんたちがいたのを思い出したのだ。蕎麦屋で飲むなんて30代の僕らにはまだ早いとも思ったが、ちょっと背伸びがしたかった。
引き戸を開けて中に入ると「いらっしゃーい」と独特の節で迎えてくれる。およそ30年ぶりにやってきた思い出の店は、ずいぶん狭くなったみたいだった。それだけ僕のからだが大きくなったということか。卓と腰掛け、壁、天井、立派な柱時計はまったく変わらない。奥の蕎麦打ち場も昔のままだ。いまどき珍しくどの席でも煙草が吸えるようで、すべての卓に陶器の灰皿がすえられている。昼時は過ぎていたので混んではいない。通された席に座り、ビールの大瓶、焼き鳥、蕎麦がきを頼んだ。注文を聞くエプロン姿のお姉さんも昔と変わらない。
斜め向かいの席に、いかにもお金持ちというなりをした初老の夫婦がいた。夫が妻に蕎麦の食べ方について、講義をしているのが聞くともなく聞こえてくる。「蕎麦をつゆにじゃぶじゃぶつけるんじゃないよ、半分ほどをちょいとつけて一、気にすするのが粋なんだ。」「そんなに噛んじゃだめだ、蕎麦は喉越しが大事なのに。」美食家気取りの男性のたれる講釈が、あまりにも型通りでおかしかった。妻にしてみれば、ガミガミいわれながら食べる蕎麦は美味しくなかっただろうが。
美食家は帰り際、お姉さんに「蕎麦屋が煙草を許してはまずいんじゃないか?」と投げかけた。お姉さんが愛想笑いをしていると美食家は続ける。「煙草のせいで蕎麦の香りが…」いい終わらないうちにお姉さんが口を開いた。「あいすみません、うちは昔からこうさせてもらってまして。あいすみません。」笑顔ではあるが断固たる拒絶だった。
がらりと戸が開くと上下ジャージに草履という薄着の男性が「うー、さむさむ」と身をすくめて入ってきた。職人気質な江戸っ子という風情だ。角の席にいた別の客と顔なじみらしく、二言三言交わしてから奥の席へ向かった。男性が席に着くなり、お姉さんは銚子と猪口を差し出す。
「よお、ありがとさん。」
「どうします?」
「んー、きょうは冷えるから…」
「鍋焼き?」
「おう、それだ。うどんは柔らかくな。」
「あいよ。」
実にテンポよく簡潔なやり取りを終えると、男性は煙草に火をつけて旨そうに煙を吐き出した。それから酒を手酌し、アチチといいながら飲みはじめた。
20130618
Z-MEN
キングオブコメディというお笑いコンビがおもしろい。人間離れした風貌の今野と、浪人生のように地味な出で立ちの高橋(パーケン)が演じる、常軌を逸した言動と悲哀に満ちた世界観が好きだ。台詞の言い回しや間合いを覚えるほど、彼らのコントを繰り返して観ている。何年か前に彼らがキングオブコントというコンテストで一番をとったときは、とても気分がよかった。
多くのファンと同じように、僕もはじめは今野の強烈なキャラクターに目が留まって興味を持った。そして見ているうちに高橋(パーケン)の異常性に気づき、彼にどんどん惹かれていった。隔週に配信されるニコニコ動画の番組で、彼の変人ぶりをつぶさに見ることができる。自身の身体的特徴を逆手に取った「色弱ギャグ」や、電車内での痴漢騒動、逮捕、留置、不起訴という希有な経験を踏まえた「冤罪ギャグ」がたまらない。彼の語る日常のハプニングも楽しい。極端に人見知りで凝り性で貧乏性な彼の、独特な視点で切り取られる出来事には、不幸なエピソードがとても多い。普通のひとなら何日も思い悩んでしまいそうな体験が次々に披露されるが、悲壮感がまるでなく軽快な語り口だ。あまりにさらりと話すので、聞いているこちらはフフフと笑ってしまう。彼は映画が好きなようで、端々で話に上がる。彼が話題にする作品は、どれも一般的にはさほど有名ではないように思うが、僕には共感できることが多い。僕は高橋(パーケン)と趣味が似ているみたいだ。
あるとき突然、番組で彼がももクロの話をしはじめた。ももクロのパフォーマンスを目の前で見たら、不思議と涙が溢れ幸福感に満たされたという。これまでアイドルを追いかけるどころか、好きになったことさえないという彼が、これを期に一気にのめり込んだようだ。それからは毎回のように、ライヴにいった話やももクロゆかりの地を巡礼した話を、裏返った声で熱く語る。その入れ込みようたるや凄まじく、去年の暮れに紅白出場が決まったときには、目に涙を貯め、下唇を振るわせ、息を詰まらせながら喜びを訴えていた。僕はももクロをまるで知らないのに、その情熱に圧倒されてついもらい泣きしてしまった。
僕の弟は幼い頃から音楽狂だ。 きっかけはたぶん1987年のマイケル・ジャクソン来日だと思う。横浜スタジアムでコンサートがあり、その模様がテレビ中継された。地元の小学生たちはみんなマイケルに夢中になった。僕と弟も繰り返し録画ビデオを見ながら彼を真似して、摺り足で後ずさりし、股間を握ってポウ!と奇声を上げていた。その後弟はローリング・ストーンズと出会って心酔した。彼が小学4年生のとき、ストーンズがワールドツアーで日本にやってきた。彼は貯めていたお年玉をはたいて切符を買い、お母さんに同伴をおねがいしてコンサートにいった。中学生になるとエレキギターを買って友だちとバンドを組んだ。高校ではラップやレゲエ、ブルースといった黒人のレベル音楽に傾倒した。彼らの叫びや怒りの声を腹の底で理解できるようになりたいと、大学では英語を専攻した。その後さらに生きた英語を身につけたくて、横須賀の米軍基地内に就職した。労働の対価をほとんどレコード購入にあて、ターンテーブルと楽器、レコードに埋もれた倉庫のような部屋で寝起きしていた。ずっと外国の音楽が生活の中心にあった。
今年の冬のある日、弟から電話があった。「明日そっちにいくから泊めてくれない?」彼はいつも突然遊びに来る。この前は飛行機を降り立った那覇空港ではじめて連絡をよこした。それに比べればいくぶんいい。あいにく夜勤だったので泊めてやることはできなかったが、その翌日に会う約束をした。
弟がいたく気に入っている栄町の「あだん」で島酒を飲みながら、最近聴いた音楽や観た映画の話をした。彼とはあまり仕事や日常の話をしたことがない。別に避けているつもりはないのだが、不思議と話題に上がらない。いつも音楽と映画の話ばかりだ。 ひとしきり話したあと、そういえば、と僕は弟に尋ねた。「なんで突然沖縄に来たの?」「こっちでやるライヴのチケットをオークションで安く落とせたから。いま仕事が暇でさ。」と弟。沖縄では、アメリカの有名ミュージシャンが米軍基地の慰問に来たついでに日本人向けにもライヴをする、ということが珍しくない。「誰のライヴ?」と聞くと弟は少し気恥ずかしそうにして答えた。「も、ももクロ…。」
びっくりした。弟はいつも「80年代にアメリカで生まれてマイケル・ジャクソンに熱狂したかった。70年代にジャマイカでボブ・マーリーの怒りを共感したかった。どんなに聴き込んでも、今の日本で彼らの音楽を本当に味わうことはできない。文化や背景が違いすぎる。」と音楽の同時代性について語り、リアリティを感じられないことを嘆いていた。マイケルやボブを深く愛し、とことん追求しているからこそ達した感覚なのだと思う。その弟は今、日本のアイドルに魅せられて、遠く沖縄まで来ている。いったいどういうことか。
外資系レコード店でラップ音楽のバイヤーをしている友だちに「とにかくこのビデオを観ろ。」と強引に勧められたのが、ももクロのライヴ映像だったらしい。これは、と思いすぐにライヴにいった。そのライヴで涙が止まらなくなり、以来何度も足を運んでいるという。曰く「ようやく自分の音楽に出会えた。」らしい。
黒人の音楽は自分の音楽になり得なかった、という理屈はよくわかる。でもその話の延長線上にももクロが出てきて、自分の音楽になった、というがどうもわからない。あまりに毛色が違いすぎる。僕がいうと弟は「うん、それみんなにいわれるよ。でも俺の中では繋がってるんだよね、上手くいえないけど。」と応じた。彼がももクロのどこに魅力を感じているのか、結局よくわからなかった。
ももクロと聞いてニコニコ動画の番組のことを思い出し「キングオブコメディっていうお笑いの…」といいかけるや否や、弟は「ああ、パーケンね。」と即座に返した。ももクロファンの間で彼は有名で、尊敬の的になっているらしい。彼の言動がファンの共感を得ているのだそうだ。
僕の好きなお笑い芸人が愛し、互いに影響を与え合った弟が魅了されているももクロとは、いったい何者なんだ。ちょっと興味が湧いている。でも一度足を踏み入れたらどっぷりと引き込まれてしまいそうで怖くもある。
多くのファンと同じように、僕もはじめは今野の強烈なキャラクターに目が留まって興味を持った。そして見ているうちに高橋(パーケン)の異常性に気づき、彼にどんどん惹かれていった。隔週に配信されるニコニコ動画の番組で、彼の変人ぶりをつぶさに見ることができる。自身の身体的特徴を逆手に取った「色弱ギャグ」や、電車内での痴漢騒動、逮捕、留置、不起訴という希有な経験を踏まえた「冤罪ギャグ」がたまらない。彼の語る日常のハプニングも楽しい。極端に人見知りで凝り性で貧乏性な彼の、独特な視点で切り取られる出来事には、不幸なエピソードがとても多い。普通のひとなら何日も思い悩んでしまいそうな体験が次々に披露されるが、悲壮感がまるでなく軽快な語り口だ。あまりにさらりと話すので、聞いているこちらはフフフと笑ってしまう。彼は映画が好きなようで、端々で話に上がる。彼が話題にする作品は、どれも一般的にはさほど有名ではないように思うが、僕には共感できることが多い。僕は高橋(パーケン)と趣味が似ているみたいだ。
あるとき突然、番組で彼がももクロの話をしはじめた。ももクロのパフォーマンスを目の前で見たら、不思議と涙が溢れ幸福感に満たされたという。これまでアイドルを追いかけるどころか、好きになったことさえないという彼が、これを期に一気にのめり込んだようだ。それからは毎回のように、ライヴにいった話やももクロゆかりの地を巡礼した話を、裏返った声で熱く語る。その入れ込みようたるや凄まじく、去年の暮れに紅白出場が決まったときには、目に涙を貯め、下唇を振るわせ、息を詰まらせながら喜びを訴えていた。僕はももクロをまるで知らないのに、その情熱に圧倒されてついもらい泣きしてしまった。
僕の弟は幼い頃から音楽狂だ。 きっかけはたぶん1987年のマイケル・ジャクソン来日だと思う。横浜スタジアムでコンサートがあり、その模様がテレビ中継された。地元の小学生たちはみんなマイケルに夢中になった。僕と弟も繰り返し録画ビデオを見ながら彼を真似して、摺り足で後ずさりし、股間を握ってポウ!と奇声を上げていた。その後弟はローリング・ストーンズと出会って心酔した。彼が小学4年生のとき、ストーンズがワールドツアーで日本にやってきた。彼は貯めていたお年玉をはたいて切符を買い、お母さんに同伴をおねがいしてコンサートにいった。中学生になるとエレキギターを買って友だちとバンドを組んだ。高校ではラップやレゲエ、ブルースといった黒人のレベル音楽に傾倒した。彼らの叫びや怒りの声を腹の底で理解できるようになりたいと、大学では英語を専攻した。その後さらに生きた英語を身につけたくて、横須賀の米軍基地内に就職した。労働の対価をほとんどレコード購入にあて、ターンテーブルと楽器、レコードに埋もれた倉庫のような部屋で寝起きしていた。ずっと外国の音楽が生活の中心にあった。
今年の冬のある日、弟から電話があった。「明日そっちにいくから泊めてくれない?」彼はいつも突然遊びに来る。この前は飛行機を降り立った那覇空港ではじめて連絡をよこした。それに比べればいくぶんいい。あいにく夜勤だったので泊めてやることはできなかったが、その翌日に会う約束をした。
弟がいたく気に入っている栄町の「あだん」で島酒を飲みながら、最近聴いた音楽や観た映画の話をした。彼とはあまり仕事や日常の話をしたことがない。別に避けているつもりはないのだが、不思議と話題に上がらない。いつも音楽と映画の話ばかりだ。 ひとしきり話したあと、そういえば、と僕は弟に尋ねた。「なんで突然沖縄に来たの?」「こっちでやるライヴのチケットをオークションで安く落とせたから。いま仕事が暇でさ。」と弟。沖縄では、アメリカの有名ミュージシャンが米軍基地の慰問に来たついでに日本人向けにもライヴをする、ということが珍しくない。「誰のライヴ?」と聞くと弟は少し気恥ずかしそうにして答えた。「も、ももクロ…。」
びっくりした。弟はいつも「80年代にアメリカで生まれてマイケル・ジャクソンに熱狂したかった。70年代にジャマイカでボブ・マーリーの怒りを共感したかった。どんなに聴き込んでも、今の日本で彼らの音楽を本当に味わうことはできない。文化や背景が違いすぎる。」と音楽の同時代性について語り、リアリティを感じられないことを嘆いていた。マイケルやボブを深く愛し、とことん追求しているからこそ達した感覚なのだと思う。その弟は今、日本のアイドルに魅せられて、遠く沖縄まで来ている。いったいどういうことか。
外資系レコード店でラップ音楽のバイヤーをしている友だちに「とにかくこのビデオを観ろ。」と強引に勧められたのが、ももクロのライヴ映像だったらしい。これは、と思いすぐにライヴにいった。そのライヴで涙が止まらなくなり、以来何度も足を運んでいるという。曰く「ようやく自分の音楽に出会えた。」らしい。
黒人の音楽は自分の音楽になり得なかった、という理屈はよくわかる。でもその話の延長線上にももクロが出てきて、自分の音楽になった、というがどうもわからない。あまりに毛色が違いすぎる。僕がいうと弟は「うん、それみんなにいわれるよ。でも俺の中では繋がってるんだよね、上手くいえないけど。」と応じた。彼がももクロのどこに魅力を感じているのか、結局よくわからなかった。
ももクロと聞いてニコニコ動画の番組のことを思い出し「キングオブコメディっていうお笑いの…」といいかけるや否や、弟は「ああ、パーケンね。」と即座に返した。ももクロファンの間で彼は有名で、尊敬の的になっているらしい。彼の言動がファンの共感を得ているのだそうだ。
僕の好きなお笑い芸人が愛し、互いに影響を与え合った弟が魅了されているももクロとは、いったい何者なんだ。ちょっと興味が湧いている。でも一度足を踏み入れたらどっぷりと引き込まれてしまいそうで怖くもある。
20130615
A Climbing Monkey
入学試験が間近に迫った冬、僕は悲観していた。いきたい大学の試験科目がこれまでと変わり、「人物着彩」という課題が出される予定になっていた。「ポーズをとったモデルを水彩絵具やアクリルガッシュで描写する」というものだ。僕は鉛筆デッサンや立体造形は好きだが、絵具で絵を描くのが苦手だった。浪人2年目、もう後がない、今年決めなければならない、あの大学に絶対入りたい。でもまったく自信が持てなかった。描いても描いても上手くいかない。ともに合格を目指すアトリエの仲間たちは精鋭ぞろいで、みんな美しい人物画をさらさらと仕上げる。焦っていた。
朝から絵具と格闘してどうにか描き上げた一枚は、相変わらずお粗末なものだった。仲間たちの作品と並べると僕の絵は一際汚い。講師陣の講評は代わり映えのしない内容だ。いや、むしろナイーブな僕の心中を推し量ってか、以前よりも優しい論調になっている気がする。そんな配慮がなお悔しい。
夜遅くに講評会が終わりアトリエを出ると、一面銀世界だった。見上げると澄んだ空に星が輝いている。いつの間にか大雪が降り、そして晴れたようだ。雪が街灯の光を柔らかく跳ね返し、普段より明るい小町通りを鎌倉駅へ歩く。この時間の小町通りはいつも静かだが、今日はことさら静かに感じる。積もった雪の白さがそうさせるのか。冷たい空気が火照った体を冷ましてくれる。駅に着きいつもよりゆっくり走る電車に乗った。
磯子駅も明るく静かだった。見慣れた地元が知らない土地のように思える。駐輪場にいくと僕のバイクは雪に埋もれ、どこにあるのかわからなくなっていた。
ホンダのモンキー。小学生にちょうどいいくらいの小さな車体に50ccのエンジンを積んだバイクだ。アトリエの講師が乗らなくなった新車同然のこのバイクを、格安で譲ってもらって下駄代わりにしていた。広い道路を走るには非力で不安を感じるが、小さい分取り回しが簡単で、オモチャのように遊ぶには楽しい。受験勉強一色の当時の僕にとって、このモンキーが息抜きの道具になっていた。片道10分あまり、家と駅の往復もちょっとした楽しみだった。
普通に考えれば今日のところはバイクは置いて、歩いて帰るのが正解だと思う。でもこのときの僕には、バイクに乗って帰るという以外の選択肢を考えられなかった。雪の積もったあの坂をモンキーで登りたい。頭にあったのはそれだけだった。雪の山をかきわけてバイクを見つけ掘り返した。ヘルメットの中に詰まった雪もかき出す。冷えきったエンジンはかからない。何度もキックペダルを踏み、じんわりと額に汗がにじんだ頃にようやくかかった。鼻をすすり煙草を1本吸ってエンジンが暖まるのを待ち、ギアを入れてゆっくりクラッチをつなぐ。後輪はすぐに空回りをする。なかなか真っすぐ走ってくれない。よろよろしながら家路についた。いつもならば横浜プリンスホテルの敷地を抜ける。それが最短距離で早いからだ。でも今日は少し遠回りをするつもりだ。プリンスホテルの裏手、地元の人たちが「旧道」と呼ぶ通りを目指す。間坂の交番を左に曲がり坂を上って旧道に出る。さらに左に曲がるとやがて長く真っすぐな坂が現れる。近所で一番の急坂だ。この坂を登りたかった。
なぜかと問われると答えに困るのだが、幼い頃から坂が好きだ。 急な坂、細い坂、くねくね曲がる坂、坂を見ると登りたくなる。走って上がるのもいいし自転車を漕いで上がるのも楽しい。どうしてか登り坂をみると気分が高揚する。
坂に差し掛かった。勾配がきつくなるにつれて湿った雪にタイヤが獲られ、滑りはじめる。徐々に速度を保てなくなり進まなくなった。 見回すと道の脇に何台も乗用車が停まっている。坂を登れなく立ち往生した車が乗り捨てられているようだ。俄然気持ちが高ぶる。何が何でもこの坂を制してやろう。両足は地面につけたまま、スロットルをグイとひねってエンジンを吹かす。高回転を維持したままクラッチをつなぐ。ホイルスピンをして雪を巻き上げながら発進した。灰色の雪が背中に飛び散る。クラッチレバーを微調整して少しずつ登る。何度も止まり、進み、を繰り返してようやく頂上にたどり着いた。バイクも僕も泥だらけだ。息が弾んでいる。清々しい。
達成感に浸りながら坂の頂上で一服してからまた家路についた。汐見台中学の信号を右に曲がり自宅のある団地に入る。団地の入口にも急坂があり、ここにも乗り捨てられた車がある。だが怖くはない。旧道の坂を制した僕にしてみればこの程度の坂はなんでもない。悠々と登り切り、家まであとちょっとのところで空き地が目に入った。長く駐車場として使われていたが、新棟が建つことになって整理されたばかりの土地だ。一面に雪が積もっていて足跡ひとつない。月明かりに照らされてキラキラしている。僕は引き寄せられるように空き地に入っていった。モンキーを駆り、広い空き地を縦横無尽に走り回った。粉雪を舞い上げながら車体を横滑りさせる。右に左に体を振ってわざと転ぶ。新雪に倒れるのでまったく痛くない。空き地をグルグル駆け巡ってまっさらな雪をひとしきり泥だらけにしたところで満足し、家に帰った。磯子駅から家までいつもなら10分、このときは2時間かかった。
この翌日から僕は吹っ切れたのか、なにかに目覚めたのか、人が変わったように美しい人物画を描くようになった、となれば格好がいい。でも現実はそうじゃなかった。翌日から風邪をひき、熱を出して2日寝込んだ。その次の日にまた人物画を描いたが、これまでと変わらず下手糞だった。
朝から絵具と格闘してどうにか描き上げた一枚は、相変わらずお粗末なものだった。仲間たちの作品と並べると僕の絵は一際汚い。講師陣の講評は代わり映えのしない内容だ。いや、むしろナイーブな僕の心中を推し量ってか、以前よりも優しい論調になっている気がする。そんな配慮がなお悔しい。
夜遅くに講評会が終わりアトリエを出ると、一面銀世界だった。見上げると澄んだ空に星が輝いている。いつの間にか大雪が降り、そして晴れたようだ。雪が街灯の光を柔らかく跳ね返し、普段より明るい小町通りを鎌倉駅へ歩く。この時間の小町通りはいつも静かだが、今日はことさら静かに感じる。積もった雪の白さがそうさせるのか。冷たい空気が火照った体を冷ましてくれる。駅に着きいつもよりゆっくり走る電車に乗った。
磯子駅も明るく静かだった。見慣れた地元が知らない土地のように思える。駐輪場にいくと僕のバイクは雪に埋もれ、どこにあるのかわからなくなっていた。
ホンダのモンキー。小学生にちょうどいいくらいの小さな車体に50ccのエンジンを積んだバイクだ。アトリエの講師が乗らなくなった新車同然のこのバイクを、格安で譲ってもらって下駄代わりにしていた。広い道路を走るには非力で不安を感じるが、小さい分取り回しが簡単で、オモチャのように遊ぶには楽しい。受験勉強一色の当時の僕にとって、このモンキーが息抜きの道具になっていた。片道10分あまり、家と駅の往復もちょっとした楽しみだった。
普通に考えれば今日のところはバイクは置いて、歩いて帰るのが正解だと思う。でもこのときの僕には、バイクに乗って帰るという以外の選択肢を考えられなかった。雪の積もったあの坂をモンキーで登りたい。頭にあったのはそれだけだった。雪の山をかきわけてバイクを見つけ掘り返した。ヘルメットの中に詰まった雪もかき出す。冷えきったエンジンはかからない。何度もキックペダルを踏み、じんわりと額に汗がにじんだ頃にようやくかかった。鼻をすすり煙草を1本吸ってエンジンが暖まるのを待ち、ギアを入れてゆっくりクラッチをつなぐ。後輪はすぐに空回りをする。なかなか真っすぐ走ってくれない。よろよろしながら家路についた。いつもならば横浜プリンスホテルの敷地を抜ける。それが最短距離で早いからだ。でも今日は少し遠回りをするつもりだ。プリンスホテルの裏手、地元の人たちが「旧道」と呼ぶ通りを目指す。間坂の交番を左に曲がり坂を上って旧道に出る。さらに左に曲がるとやがて長く真っすぐな坂が現れる。近所で一番の急坂だ。この坂を登りたかった。
なぜかと問われると答えに困るのだが、幼い頃から坂が好きだ。 急な坂、細い坂、くねくね曲がる坂、坂を見ると登りたくなる。走って上がるのもいいし自転車を漕いで上がるのも楽しい。どうしてか登り坂をみると気分が高揚する。
坂に差し掛かった。勾配がきつくなるにつれて湿った雪にタイヤが獲られ、滑りはじめる。徐々に速度を保てなくなり進まなくなった。 見回すと道の脇に何台も乗用車が停まっている。坂を登れなく立ち往生した車が乗り捨てられているようだ。俄然気持ちが高ぶる。何が何でもこの坂を制してやろう。両足は地面につけたまま、スロットルをグイとひねってエンジンを吹かす。高回転を維持したままクラッチをつなぐ。ホイルスピンをして雪を巻き上げながら発進した。灰色の雪が背中に飛び散る。クラッチレバーを微調整して少しずつ登る。何度も止まり、進み、を繰り返してようやく頂上にたどり着いた。バイクも僕も泥だらけだ。息が弾んでいる。清々しい。
達成感に浸りながら坂の頂上で一服してからまた家路についた。汐見台中学の信号を右に曲がり自宅のある団地に入る。団地の入口にも急坂があり、ここにも乗り捨てられた車がある。だが怖くはない。旧道の坂を制した僕にしてみればこの程度の坂はなんでもない。悠々と登り切り、家まであとちょっとのところで空き地が目に入った。長く駐車場として使われていたが、新棟が建つことになって整理されたばかりの土地だ。一面に雪が積もっていて足跡ひとつない。月明かりに照らされてキラキラしている。僕は引き寄せられるように空き地に入っていった。モンキーを駆り、広い空き地を縦横無尽に走り回った。粉雪を舞い上げながら車体を横滑りさせる。右に左に体を振ってわざと転ぶ。新雪に倒れるのでまったく痛くない。空き地をグルグル駆け巡ってまっさらな雪をひとしきり泥だらけにしたところで満足し、家に帰った。磯子駅から家までいつもなら10分、このときは2時間かかった。
この翌日から僕は吹っ切れたのか、なにかに目覚めたのか、人が変わったように美しい人物画を描くようになった、となれば格好がいい。でも現実はそうじゃなかった。翌日から風邪をひき、熱を出して2日寝込んだ。その次の日にまた人物画を描いたが、これまでと変わらず下手糞だった。
20130614
A Glass of Wine with Some Strawberries
1枚の写真がSNSにポストされている。それを見て僕は思わず大きな声を出した。「飲みたい!」突如として記憶が溢れ出る。
おととしの今頃、学生時代からの友だちの結婚式にお呼ばれして、ドイツのボンを訪れた。結婚式前日の夕方に友だちのご主人の実家にお邪魔した。式のあと庭でパーティが催される予定で、家のひとたちは飾り付けや料理の準備に忙しい。日本から駆けつけた友だちの親族ご一行も集まっていて準備を手伝っていた。そこによそ者の僕が図々しくも上がり込んだのだ。ありがたいことに両家の皆さんは、この怪しい日本の中年男を快く受け入れてくれ、一緒に準備をしようと笑顔で誘ってくれる。新郎の従姉妹による指揮の下で庭の飾り付けをしていたら新郎のお母さんがビールとソーセージを持ってきてくれた。どちらも美味い。大騒ぎして喜ぶとお母さんはさらに勧めてくれる。ワインも飲め、スープはどうだ、サンドウィッチを作ろうか。もはや手伝いにきたのか食事をいただきにきたのかわからない。
ガラスのボウルに盛られた苺を出してくれた。庭でいま採ったのだという。赤が濃く小粒で形の不揃いな苺は、強めの酸味とほどよい渋味があって爽やかだ。香りもすごくいい。こんなに美味しい苺は食べたことがないと僕はまた騒ぐ。するとお母さんが細くて脚の長いグラスを僕に差し出し、ワインを注いでくれた。ほんのりと甘くすっきりとした白のスパークリングワインで、清涼感があって美味しい。お母さんが苺をグラスに入れてみろという。へたを取り4、5個浮かべて飲んでみる。 からだに電気が走った。口に含むと柔らかく甘さが広がって、噛むと苺のすっぱい果汁が甘みを際立たせる。恍惚のときは次の瞬間に訪れる。飲み込むのと同時に苺と葡萄の瑞々しい香りが鼻から抜けて全身の皮膚感覚が一瞬鋭敏になり、そのあと筋肉が弛緩する。キューバで葉巻を吸ったときにも同じ感覚を味わった。ひとは美しい香りをかぐとこんな風にからだが反応するようにできているのかもしれない。僕はこの魔法の酒の虜になった。何度も何度もおかわりした。友だちと新郎一家の計らいで、僕はこの晩ここに泊めてもらえることになっている。異国の夜道を千鳥足でさまよう必要はない。心置きなく酔いしれた。
次の日の朝、教会での結婚式に向かう前に、僕は背広に着替えて大学の仲間たちが到着するのを庭先で待っていた。何人かは早朝にドイツに着く飛行機で日本からやって来るし、ドイツやヨーロッパ各地で生活している仲間たちも結婚を祝うために集うことになっていたのだ。脇のテーブルの上にワインクーラーがある。きのうのと同じワインが冷やされていた。僕は居ても立ってもいられずに栓を抜き、花壇で熟した苺をむしり取って飲みはじめた。きょうもたまらなく美味い。何杯かおかわりしているうちに、ひとりまたひとり仲間が集まってきた。すでにいい気持ちの僕は仲間が着くたびに魔法の酒を勧める。まあ飲んでみろ、どうだ美味いだろ。まるで自分の家で自分が作った料理を振る舞うかのごとく得意気な顔をしていたに違いない。
結婚式も、友だちの花嫁姿も、パーティで大活躍した生ビールのトレーラーも、仲間のベルリン四方山話も、親方特製木目金の指輪も、ケルンでの晩餐も、デュッセルドルフのボロアパートも、どれもすばらしかった。でもこの旅で圧倒的に印象深いのは、苺を浮かべたワインの香りだ。決して忘れられない。
投稿されていたのはこの苺ワインの写真だった。「苺の季節到来」とキャプションが添えられている。いまもボンで生活し母となった、あの友だちからのものだ。ああ、あの香りが恋しい。ドイツにいきたい。
おととしの今頃、学生時代からの友だちの結婚式にお呼ばれして、ドイツのボンを訪れた。結婚式前日の夕方に友だちのご主人の実家にお邪魔した。式のあと庭でパーティが催される予定で、家のひとたちは飾り付けや料理の準備に忙しい。日本から駆けつけた友だちの親族ご一行も集まっていて準備を手伝っていた。そこによそ者の僕が図々しくも上がり込んだのだ。ありがたいことに両家の皆さんは、この怪しい日本の中年男を快く受け入れてくれ、一緒に準備をしようと笑顔で誘ってくれる。新郎の従姉妹による指揮の下で庭の飾り付けをしていたら新郎のお母さんがビールとソーセージを持ってきてくれた。どちらも美味い。大騒ぎして喜ぶとお母さんはさらに勧めてくれる。ワインも飲め、スープはどうだ、サンドウィッチを作ろうか。もはや手伝いにきたのか食事をいただきにきたのかわからない。
ガラスのボウルに盛られた苺を出してくれた。庭でいま採ったのだという。赤が濃く小粒で形の不揃いな苺は、強めの酸味とほどよい渋味があって爽やかだ。香りもすごくいい。こんなに美味しい苺は食べたことがないと僕はまた騒ぐ。するとお母さんが細くて脚の長いグラスを僕に差し出し、ワインを注いでくれた。ほんのりと甘くすっきりとした白のスパークリングワインで、清涼感があって美味しい。お母さんが苺をグラスに入れてみろという。へたを取り4、5個浮かべて飲んでみる。 からだに電気が走った。口に含むと柔らかく甘さが広がって、噛むと苺のすっぱい果汁が甘みを際立たせる。恍惚のときは次の瞬間に訪れる。飲み込むのと同時に苺と葡萄の瑞々しい香りが鼻から抜けて全身の皮膚感覚が一瞬鋭敏になり、そのあと筋肉が弛緩する。キューバで葉巻を吸ったときにも同じ感覚を味わった。ひとは美しい香りをかぐとこんな風にからだが反応するようにできているのかもしれない。僕はこの魔法の酒の虜になった。何度も何度もおかわりした。友だちと新郎一家の計らいで、僕はこの晩ここに泊めてもらえることになっている。異国の夜道を千鳥足でさまよう必要はない。心置きなく酔いしれた。
次の日の朝、教会での結婚式に向かう前に、僕は背広に着替えて大学の仲間たちが到着するのを庭先で待っていた。何人かは早朝にドイツに着く飛行機で日本からやって来るし、ドイツやヨーロッパ各地で生活している仲間たちも結婚を祝うために集うことになっていたのだ。脇のテーブルの上にワインクーラーがある。きのうのと同じワインが冷やされていた。僕は居ても立ってもいられずに栓を抜き、花壇で熟した苺をむしり取って飲みはじめた。きょうもたまらなく美味い。何杯かおかわりしているうちに、ひとりまたひとり仲間が集まってきた。すでにいい気持ちの僕は仲間が着くたびに魔法の酒を勧める。まあ飲んでみろ、どうだ美味いだろ。まるで自分の家で自分が作った料理を振る舞うかのごとく得意気な顔をしていたに違いない。
結婚式も、友だちの花嫁姿も、パーティで大活躍した生ビールのトレーラーも、仲間のベルリン四方山話も、親方特製木目金の指輪も、ケルンでの晩餐も、デュッセルドルフのボロアパートも、どれもすばらしかった。でもこの旅で圧倒的に印象深いのは、苺を浮かべたワインの香りだ。決して忘れられない。
投稿されていたのはこの苺ワインの写真だった。「苺の季節到来」とキャプションが添えられている。いまもボンで生活し母となった、あの友だちからのものだ。ああ、あの香りが恋しい。ドイツにいきたい。
20130610
Fires on The Opposite Shore
あの日は昼間の勤務だった。 病棟の一角にある談話スペースに患者たちが集まって、テレビに食い入っていた。真っ赤な炎と真っ黒い煙が映っている。海沿いの工場が激しく燃えているようだ。どこかで大きな地震があったらしいよ、と患者のひとりが教えてくれた。アナウンサーがたどたどしく原稿を読んでいる。情報が錯綜しているようで、まったく的を射ない。しばらく大火事を見ていると画面の隅に「LIVE - 千葉県上空」と文字が出て、血の気が引いた。家族や友だちの顔が次々に浮かぶが、実家に電話をかけにいくでもなく、かといって元の仕事に戻るでもなく、ただ燃え盛る工場の様子を見つめることしかできない。各地の震度が少しずつ示されるようになり、津波や余震への注意喚起が繰り返しアナウンスされる。手にびっしょりと汗をかいていた。しばらくすると主婦業と看護師業、二足のわらじを履きこなす肝っ玉母ちゃんといった風の同僚がやってきて、僕に「なにがあったの?」と尋ねた。「内地で大地震って。かなりひどいみたい。」と僕。すると彼女は「えー、困る!」と大きな声を上げた。「野菜が高くなるじゃない!」
近隣諸国との関係を保つために米軍基地は必要、地理的な条件を考えると沖縄に基地を置くのが妥当。地元に帰ると聞こえる声だ。全国ネットのニュース番組や大手の新聞紙面でもそんな論調が目に留まる。基地問題は安全保障の問題だ、と捉えるひとがたくさんいるようだ。
沖縄本島をドライブすると気づく。この島の平らな土地はほとんど米軍の基地になっていて、沖縄の人々は平地以外の山や海沿いで暮らしている。夜の国道58号線、北谷辺りでYナンバーの改造スポーツカーが、急発進と乱暴な車線変更を繰り返す。体力自慢の男の子たちが故郷を離れ、異国できつい仕事をしている。給料は安いが家賃も光熱費もかからないから自然と金が貯まる。ほかに楽しみはない。血気盛んな彼らがあこがれの高性能な日本車を買って、飛ばしたくなるのは当然といえば当然。そして当然事故が多い。
「僕の娘がよ、酔っぱらった米兵に乱暴されたわけさ。あれから娘は外に出れんくなってずっとお家にいる。米兵や軍が許せんよ。憎くてたまらんさ。基地なんていらん、なくなってほしいよ。でも古い付き合いのお隣さんは夫婦揃って基地内で働いているからや、大きな声でアメリカーを悪くはいえないわけさ。」
失業率一位を独走する沖縄で、米軍に直接雇用されている日本人は約9000人。基地内の工事や建設、流通や販売などに携わる日本人を含めると、さらに多くのひとが米軍から支払われる賃金で生活している。米軍は沖縄県庁に次ぐ大きな雇用主で、米軍なしに沖縄の経済は成り立たない。
震災があった年の夏、ある研修に参加した。県内各所から看護師が集まり、知識や技術を磨こうというものだ。その研修で10人あまりの班に別れてグループディスカッションをすることになり、互いに見知らぬ参加者たちが輪になった。
ある活発な参加者が司会を買って出て、手始めに自己紹介をしようと提案してくれた。ひとりずつ名乗り、勤務先や専門とする診療科などを簡単に話す。僕の番になって「飯塚と申します。」というと司会のひとが「どちらのご出身?」と尋ねた。沖縄では地元の出身か県外出身か、苗字ですぐにわかる。「神奈川です。」というと「お、都会ですね、中華街は楽しいよね。」と応じてくれる。こんな風にして司会者と一言二言やり取りをしながら自己紹介が進んでいった。
ある若い看護師が名乗ると、また司会者は「ご出身は?」と聞いた。沖縄にはない苗字だったからだ。彼女が「宮城県です。」と答えると司会者は「あら!ご実家は大丈夫だった?」と聞き返す。彼女はすこし下を向き、そのあと小さくいった。「津波で父と母が…。」
司会者は一瞬戸惑ったがすぐに隣の参加者に自己紹介するよう促した。その後自己紹介のリレーは滞りなく進んだ。でも誰も彼女の顔を見ることができない。彼女も顔を上げられない。「巨人がまた勝ちましたね。」「暑い日が続きますなあ。」司会者はそんな軽い感覚で彼女に質問したのかもしれない。どんな答えが返ってくるのかあまり想像せずに尋ねたようだ。初対面のひとに震災や原発の話をするのは危険、図らず他人を傷つけかねない。東日本のひとなら誰でも知っていることを、この司会者は知らなかった。
タクシーの運転手さんはおしゃべり好きなひとが多い。そして基地の話をしたがるひとが多い気がする。あるときどういう流れからだったか、基地に土地を貸す地主の話題になった。悲喜こもごもがあるようだ。終戦後、米軍が基地のために土地を徴収し、その所有者に賃貸料が支払われることになった。当時の所有者は戦争で苦労しているので、賃貸料に頼らず真面目に働いた。だが土地の所有権が息子の代に移ると、息子は働かずに遊んで暮らすようになる。親が働いて残した金と賃貸料で、苦労なく生活できるからだ。本土の悪い不動産屋がそんな状況に目を付けた。不動産屋はひとを雇って息子と毎日遊びにいくように仕向ける。はじめはパチンコ屋。息子が味を占めると本格的な賭博に誘った。息子が夢中になり負けたところで金を貸す。少しずつ金額を増やしながら何度も金を貸して息子の感覚を麻痺させる。さらに負けが込むと土地の所有権を担保に取ってまた金を貸す。賭博に狂った息子は返せるはずもなく、土地は不動産屋の手に渡る。こんな風にしてわずか数年で土地を失った地主の二代目が多いのだそうだ。運転手さん曰く「二代目は若い頃から苦労していないし、ろくに勉強もしていないさ。だから簡単に騙されてしまうよ。」と。
別の運転手さんの話。軍用地の賃貸料はその用途で大きく違うという。一番高いのは普天間飛行場の滑走路だそうだ。妻の実家がこの滑走路に土地を持っていて年に7500万円の収入があるのだが、妻の兄が親からすべて相続して独り占めし、自分たち夫婦には一銭もよこさない、と運転手さんは嘆いていた。この兄が遊んで暮らしているのかといえば、そうではないらしい。莫大な資金を投じて起業し、全国にフランチャイズ展開する有名飲食店の、沖縄での元締めをしているのだという。大きな通りを走ればいたるところでその店を見かけるし、テレビコマーシャルもよく流れている。とても繁盛しているようで、毎年賃貸料の何倍という金を稼いでいるのだそうだ。
近隣諸国との関係を保つために米軍基地は必要、地理的な条件を考えると沖縄に基地を置くのが妥当。地元に帰ると聞こえる声だ。全国ネットのニュース番組や大手の新聞紙面でもそんな論調が目に留まる。基地問題は安全保障の問題だ、と捉えるひとがたくさんいるようだ。
沖縄本島をドライブすると気づく。この島の平らな土地はほとんど米軍の基地になっていて、沖縄の人々は平地以外の山や海沿いで暮らしている。夜の国道58号線、北谷辺りでYナンバーの改造スポーツカーが、急発進と乱暴な車線変更を繰り返す。体力自慢の男の子たちが故郷を離れ、異国できつい仕事をしている。給料は安いが家賃も光熱費もかからないから自然と金が貯まる。ほかに楽しみはない。血気盛んな彼らがあこがれの高性能な日本車を買って、飛ばしたくなるのは当然といえば当然。そして当然事故が多い。
「僕の娘がよ、酔っぱらった米兵に乱暴されたわけさ。あれから娘は外に出れんくなってずっとお家にいる。米兵や軍が許せんよ。憎くてたまらんさ。基地なんていらん、なくなってほしいよ。でも古い付き合いのお隣さんは夫婦揃って基地内で働いているからや、大きな声でアメリカーを悪くはいえないわけさ。」
失業率一位を独走する沖縄で、米軍に直接雇用されている日本人は約9000人。基地内の工事や建設、流通や販売などに携わる日本人を含めると、さらに多くのひとが米軍から支払われる賃金で生活している。米軍は沖縄県庁に次ぐ大きな雇用主で、米軍なしに沖縄の経済は成り立たない。
震災があった年の夏、ある研修に参加した。県内各所から看護師が集まり、知識や技術を磨こうというものだ。その研修で10人あまりの班に別れてグループディスカッションをすることになり、互いに見知らぬ参加者たちが輪になった。
ある活発な参加者が司会を買って出て、手始めに自己紹介をしようと提案してくれた。ひとりずつ名乗り、勤務先や専門とする診療科などを簡単に話す。僕の番になって「飯塚と申します。」というと司会のひとが「どちらのご出身?」と尋ねた。沖縄では地元の出身か県外出身か、苗字ですぐにわかる。「神奈川です。」というと「お、都会ですね、中華街は楽しいよね。」と応じてくれる。こんな風にして司会者と一言二言やり取りをしながら自己紹介が進んでいった。
ある若い看護師が名乗ると、また司会者は「ご出身は?」と聞いた。沖縄にはない苗字だったからだ。彼女が「宮城県です。」と答えると司会者は「あら!ご実家は大丈夫だった?」と聞き返す。彼女はすこし下を向き、そのあと小さくいった。「津波で父と母が…。」
司会者は一瞬戸惑ったがすぐに隣の参加者に自己紹介するよう促した。その後自己紹介のリレーは滞りなく進んだ。でも誰も彼女の顔を見ることができない。彼女も顔を上げられない。「巨人がまた勝ちましたね。」「暑い日が続きますなあ。」司会者はそんな軽い感覚で彼女に質問したのかもしれない。どんな答えが返ってくるのかあまり想像せずに尋ねたようだ。初対面のひとに震災や原発の話をするのは危険、図らず他人を傷つけかねない。東日本のひとなら誰でも知っていることを、この司会者は知らなかった。
タクシーの運転手さんはおしゃべり好きなひとが多い。そして基地の話をしたがるひとが多い気がする。あるときどういう流れからだったか、基地に土地を貸す地主の話題になった。悲喜こもごもがあるようだ。終戦後、米軍が基地のために土地を徴収し、その所有者に賃貸料が支払われることになった。当時の所有者は戦争で苦労しているので、賃貸料に頼らず真面目に働いた。だが土地の所有権が息子の代に移ると、息子は働かずに遊んで暮らすようになる。親が働いて残した金と賃貸料で、苦労なく生活できるからだ。本土の悪い不動産屋がそんな状況に目を付けた。不動産屋はひとを雇って息子と毎日遊びにいくように仕向ける。はじめはパチンコ屋。息子が味を占めると本格的な賭博に誘った。息子が夢中になり負けたところで金を貸す。少しずつ金額を増やしながら何度も金を貸して息子の感覚を麻痺させる。さらに負けが込むと土地の所有権を担保に取ってまた金を貸す。賭博に狂った息子は返せるはずもなく、土地は不動産屋の手に渡る。こんな風にしてわずか数年で土地を失った地主の二代目が多いのだそうだ。運転手さん曰く「二代目は若い頃から苦労していないし、ろくに勉強もしていないさ。だから簡単に騙されてしまうよ。」と。
別の運転手さんの話。軍用地の賃貸料はその用途で大きく違うという。一番高いのは普天間飛行場の滑走路だそうだ。妻の実家がこの滑走路に土地を持っていて年に7500万円の収入があるのだが、妻の兄が親からすべて相続して独り占めし、自分たち夫婦には一銭もよこさない、と運転手さんは嘆いていた。この兄が遊んで暮らしているのかといえば、そうではないらしい。莫大な資金を投じて起業し、全国にフランチャイズ展開する有名飲食店の、沖縄での元締めをしているのだという。大きな通りを走ればいたるところでその店を見かけるし、テレビコマーシャルもよく流れている。とても繁盛しているようで、毎年賃貸料の何倍という金を稼いでいるのだそうだ。
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20130608
Ease & Pleasure
沖縄のラーメンは美味しくない、と本土出身の人は口を揃えていう。都会っ子風を吹かせて沖縄の人たちを悪くいうつもりは毛頭ない。でもラーメンについては僕も多くの本土出身者の意見に賛成だ。一度食べたら二度と味を忘れられないような、美味しい沖縄そば屋はごまんとあるのに、ラーメン屋となると少ない。だから評判のいい店に食べにいっても、がっかりして帰ることが多い。沖縄では油が多くて塩気の強い、パンチの効いたラーメンが人気のようで、そんなラーメンを供する店が繁盛している。僕は食べ物の味についてあれこれと語れるほどの舌を持ち合わせていないので、偉そうなことをいうのははばかられるのだが、どの店もインパクトばかりで味に深みがないように感じる。もう一度食べにいこうと思うにはいたらない。
家の近所に美味しい店がある。「麺や 和楽」京都ラーメンをうたっている。背油の浮いた醤油スープと細くて真っすぐな麺の組み合わせ。そこに三枚肉を炊いたチャーシューと太めのメンマ、小口切りの九条葱がのる。短く刻んだ韮、おろし大蒜、一味唐辛子を和えたものが薬味として別に出され、好みでどんぶりに足して食べる。見た目はこってりとしていそうだが実に柔らかい口当たりで香りもいい。薄切りのチャーシューがとても美味しいので、僕はいつも「肉中華そば」と「ご飯」を頼む。歳のせいか、最近は家系でラーメン並海苔増しライスを食べきるのに苦しむが、これはしつこくないのでぺろりといける。
和楽は角刈りで強面だが気の良さそうなご主人と、笑顔で穏やかな物腰の女将さんの二人が切り盛りしている。 厨房ではいつも、耳に心地よい関西弁の会話が明るく交わされていて、カウンター越しにご夫妻と楽しそうに話す常連客も多い。僕は極度の人見知り、内弁慶なので店員さんと気さくに話をすることができない。だからご夫妻の会話をBGMにラーメンを食べるだけで十分だ。むしろ食べ物屋さんで「いつもどうも」とか「お久しぶり」とか「今日はなんにします?」なんて声をかけられると、もうその店にいけなくなってしまう。常連客のように扱われるのが気恥ずかしくてたまらない。無機質に、常に初めて見るように扱われたいのだ。ところが和楽の女将さんは僕に「いつものでいい?」と尋ねてくる。いく度に決まって「肉中華そばとご飯」と注文するのだから、女将さんの問いかけは当然なのだけれど、こちらとしてはやっぱり恥ずかしい。下を向いて小さく「はい」と答えることしかできない。たぶんほかの店だったら僕はとっくに通うのをよしているだろう。でも和楽はこの恥ずかしさを圧してでもまたいきたい。それほど美味しいし店の雰囲気が好きだ。
何ヶ月か前、和楽の前を車で通りかかったときに、ご主人が店のシャッターを閉めながら携帯電話で話をしているのを見かけた。いつもなら営業しているはずの時間だったので、不思議に思いながら通り過ぎた。それ以降シャッターはずっと閉ざされていて「しばらく休業します」という走り書きの張り紙がしてある。店の前を通る度に様子をうかがうのだが、張り紙が雨風にさらされてだんだんよれていく以外に変化はなかった。ご主人か、女将さんか、体調を崩しているのだろうか。それともなにか別のトラブルか。いずれにしてもとても心配だ。
先週また店の前を通ったときに張り紙が変わっていた。「6月中旬頃から営業を再開します」よかった、問題は解決したみたいだ。肉中華そばとご飯を食べられる日が待ち遠しい。
家の近所に美味しい店がある。「麺や 和楽」京都ラーメンをうたっている。背油の浮いた醤油スープと細くて真っすぐな麺の組み合わせ。そこに三枚肉を炊いたチャーシューと太めのメンマ、小口切りの九条葱がのる。短く刻んだ韮、おろし大蒜、一味唐辛子を和えたものが薬味として別に出され、好みでどんぶりに足して食べる。見た目はこってりとしていそうだが実に柔らかい口当たりで香りもいい。薄切りのチャーシューがとても美味しいので、僕はいつも「肉中華そば」と「ご飯」を頼む。歳のせいか、最近は家系でラーメン並海苔増しライスを食べきるのに苦しむが、これはしつこくないのでぺろりといける。
和楽は角刈りで強面だが気の良さそうなご主人と、笑顔で穏やかな物腰の女将さんの二人が切り盛りしている。 厨房ではいつも、耳に心地よい関西弁の会話が明るく交わされていて、カウンター越しにご夫妻と楽しそうに話す常連客も多い。僕は極度の人見知り、内弁慶なので店員さんと気さくに話をすることができない。だからご夫妻の会話をBGMにラーメンを食べるだけで十分だ。むしろ食べ物屋さんで「いつもどうも」とか「お久しぶり」とか「今日はなんにします?」なんて声をかけられると、もうその店にいけなくなってしまう。常連客のように扱われるのが気恥ずかしくてたまらない。無機質に、常に初めて見るように扱われたいのだ。ところが和楽の女将さんは僕に「いつものでいい?」と尋ねてくる。いく度に決まって「肉中華そばとご飯」と注文するのだから、女将さんの問いかけは当然なのだけれど、こちらとしてはやっぱり恥ずかしい。下を向いて小さく「はい」と答えることしかできない。たぶんほかの店だったら僕はとっくに通うのをよしているだろう。でも和楽はこの恥ずかしさを圧してでもまたいきたい。それほど美味しいし店の雰囲気が好きだ。
何ヶ月か前、和楽の前を車で通りかかったときに、ご主人が店のシャッターを閉めながら携帯電話で話をしているのを見かけた。いつもなら営業しているはずの時間だったので、不思議に思いながら通り過ぎた。それ以降シャッターはずっと閉ざされていて「しばらく休業します」という走り書きの張り紙がしてある。店の前を通る度に様子をうかがうのだが、張り紙が雨風にさらされてだんだんよれていく以外に変化はなかった。ご主人か、女将さんか、体調を崩しているのだろうか。それともなにか別のトラブルか。いずれにしてもとても心配だ。
先週また店の前を通ったときに張り紙が変わっていた。「6月中旬頃から営業を再開します」よかった、問題は解決したみたいだ。肉中華そばとご飯を食べられる日が待ち遠しい。
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