看護学校にモジャというあだ名の先生がいた。東アフリカのとある遊牧民族について長年研究している大学教授で、週に一度だけうちの学校にきて講義をしていた。科目は「社会学」と「世界の生活と文化」。彼は講義の終わりに決まってmoja!と叫ぶ。mojaはスワヒリ語で数字のイチという意味だ。彼はスワヒリ語を覚えることを学生に課し、期末試験では綴りの問題を出すと予告していた。彼がmoja!と叫ぶのは、数字を暗記させるためだった。moja、mbili、tatu、nne、tano…と数字を順に発音して、みんなに復唱を促す。普段はボソボソと低い声で語る彼が突然大声で叫ぶので、夢と現をさまよう学生たちはいつも飛び上がった。モジャはいかにも大学教授然とした雰囲気だった。角帽や白衣こそ身につけていないけれど、学研の教育漫画に登場する博士のような風貌だ。恰幅がよくおでこが広い。髪は長めの癖っ毛でもじゃもじゃしていた。彼がモジャとあだ名されるのは必然といえる。
モジャの授業はいつも水を打ったように静かだ。「社会学」「世界の生活と文化」という壮大なタイトルに反して、講義内容は彼が研究対象とする民族の生活や風俗といった、ミニマルな世界にのみ焦点があてられていた。一日の生活、年間行事、経済活動、結婚や子育て、首長の選定、信仰と祈り、他部族との抗争など毎回テーマはかわるものの、遠く地の果ての、知らぬコミュニティの話が延々と続く。モジャには学生の興味を引こうとか、注目させようといった意識がないらしく、抑揚や緩急は一切なしに、自身の研究についてただ淡々と述べる。まして問題を出して学生に答えさせたり、感想を発言させることなどない。モジャと学生は決して交わらないのだ。二十歳そこそこの看護学生たちにとってはこの時間が退屈この上ないようで、みんな睡魔に襲われる。始業直後、彼の低く穏やかな声が聞こえ始めると、学生たちはバタバタと机に突っ伏していき、80名の大教室があっという間に全滅だ。私語や内職をする者さえいない。
僕はモジャの授業が大好きだった。少数民族の文化や風習は興味深かったし、合間に少しずつ語られる、ヨーロッパ中東をはじめ各地を旅したときのエピソードも楽しい。講義の本分も余談も同じ調子で静かに語るので、束の間ねむ気で意識を飛ばすと、どこの話をしているのかさっぱりわからなくなるのが難点だったが。もともと僕は、人が自分の好きなことについて話しているのを聞くのが好きだ。テーマに注文はないけれど、僕の知らない分野の方がより面白い。例えば鉄道オタクが銀釜と愛称される電気機関車について語り、音楽マニアが90年頃のデトロイト・テクノの変遷を語り、三国志ファンが赤壁の戦いを「諸葛亮対周瑜」という切り口から語るのを聞きたい。さらにいえば、そのときの彼らの顔を見るのが好きだ。淀みなく弁舌さわやかに語り、満ち足りた表情をしているのを見ていると、こちらも気持ちがいい。モジャは毎週この喜びを僕に与えてくれた。声の調子は常に低く表情も変化に乏しいのだが、幸せな雰囲気は隠されることなく漂っている。ただモジャの話を聞いているだけで、ただモジャの顔を見ているだけで安らかな気分になれた。
学年末にモジャからレポート課題が出された。テーマは「世界の生活と文化」、書式や字数は自由、参考文献は不要。要するに「なんでもいいから好きなように書きなさい。提出さえすれば及第点をあげよう。」という親切課題だ。紙ペラ一枚に授業の感想文でも書けば単位はもらえるのだから、がんばる必要はない。でも僕はそうしたくなかった。一年間存分に楽しませてもらったので、お返しにモジャが面白がるようなものを書きたい。その年の正月は家族で中国を旅行した。そのときの写真を交えて、中国の食文化について述べた。自分でいうのははばかられるが、まずまず悪くない文章になったと思う。でも物足りなかった。モジャは「書式自由」といっている。形ばかりの平凡なレポートなんて期待していないはずだ。ならばと、旅行で撮った大量の写真をスライドにまとめ、ひとつひとつにキャプションをつけた。世にいう你好トイレ——便器の周囲に壁がなく用を足す姿が他人に丸見えになる中国伝統の様式——については特に力説した。トイレの全容や詳細、用を足す姿勢で見える風景など様々な視点から撮った写真をこれでもかと連ね、弟にしゃがませて外からどう見えるかを写したものも遠慮なく載せる。スライドはDVDに焼いて「おまけ」とタイトルをつけ、レポートに添えてて提出した。
返却されたレポートには赤ペンで「100点」と記され、その下に「とても興味深いレポートでした。特にトイレについての報告は秀逸でした。」とコメントされていた。 さらに「君は熱心に講義を聞いてくれましたね。ありがとう。」と書かれている。モジャと直接言葉を交わしたことはほとんどない。モジャが僕のことを認識しているなんて露も思わなかった。
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