入学試験が間近に迫った冬、僕は悲観していた。いきたい大学の試験科目がこれまでと変わり、「人物着彩」という課題が出される予定になっていた。「ポーズをとったモデルを水彩絵具やアクリルガッシュで描写する」というものだ。僕は鉛筆デッサンや立体造形は好きだが、絵具で絵を描くのが苦手だった。浪人2年目、もう後がない、今年決めなければならない、あの大学に絶対入りたい。でもまったく自信が持てなかった。描いても描いても上手くいかない。ともに合格を目指すアトリエの仲間たちは精鋭ぞろいで、みんな美しい人物画をさらさらと仕上げる。焦っていた。
朝から絵具と格闘してどうにか描き上げた一枚は、相変わらずお粗末なものだった。仲間たちの作品と並べると僕の絵は一際汚い。講師陣の講評は代わり映えのしない内容だ。いや、むしろナイーブな僕の心中を推し量ってか、以前よりも優しい論調になっている気がする。そんな配慮がなお悔しい。
夜遅くに講評会が終わりアトリエを出ると、一面銀世界だった。見上げると澄んだ空に星が輝いている。いつの間にか大雪が降り、そして晴れたようだ。雪が街灯の光を柔らかく跳ね返し、普段より明るい小町通りを鎌倉駅へ歩く。この時間の小町通りはいつも静かだが、今日はことさら静かに感じる。積もった雪の白さがそうさせるのか。冷たい空気が火照った体を冷ましてくれる。駅に着きいつもよりゆっくり走る電車に乗った。
磯子駅も明るく静かだった。見慣れた地元が知らない土地のように思える。駐輪場にいくと僕のバイクは雪に埋もれ、どこにあるのかわからなくなっていた。
ホンダのモンキー。小学生にちょうどいいくらいの小さな車体に50ccのエンジンを積んだバイクだ。アトリエの講師が乗らなくなった新車同然のこのバイクを、格安で譲ってもらって下駄代わりにしていた。広い道路を走るには非力で不安を感じるが、小さい分取り回しが簡単で、オモチャのように遊ぶには楽しい。受験勉強一色の当時の僕にとって、このモンキーが息抜きの道具になっていた。片道10分あまり、家と駅の往復もちょっとした楽しみだった。
普通に考えれば今日のところはバイクは置いて、歩いて帰るのが正解だと思う。でもこのときの僕には、バイクに乗って帰るという以外の選択肢を考えられなかった。雪の積もったあの坂をモンキーで登りたい。頭にあったのはそれだけだった。雪の山をかきわけてバイクを見つけ掘り返した。ヘルメットの中に詰まった雪もかき出す。冷えきったエンジンはかからない。何度もキックペダルを踏み、じんわりと額に汗がにじんだ頃にようやくかかった。鼻をすすり煙草を1本吸ってエンジンが暖まるのを待ち、ギアを入れてゆっくりクラッチをつなぐ。後輪はすぐに空回りをする。なかなか真っすぐ走ってくれない。よろよろしながら家路についた。いつもならば横浜プリンスホテルの敷地を抜ける。それが最短距離で早いからだ。でも今日は少し遠回りをするつもりだ。プリンスホテルの裏手、地元の人たちが「旧道」と呼ぶ通りを目指す。間坂の交番を左に曲がり坂を上って旧道に出る。さらに左に曲がるとやがて長く真っすぐな坂が現れる。近所で一番の急坂だ。この坂を登りたかった。
なぜかと問われると答えに困るのだが、幼い頃から坂が好きだ。 急な坂、細い坂、くねくね曲がる坂、坂を見ると登りたくなる。走って上がるのもいいし自転車を漕いで上がるのも楽しい。どうしてか登り坂をみると気分が高揚する。
坂に差し掛かった。勾配がきつくなるにつれて湿った雪にタイヤが獲られ、滑りはじめる。徐々に速度を保てなくなり進まなくなった。 見回すと道の脇に何台も乗用車が停まっている。坂を登れなく立ち往生した車が乗り捨てられているようだ。俄然気持ちが高ぶる。何が何でもこの坂を制してやろう。両足は地面につけたまま、スロットルをグイとひねってエンジンを吹かす。高回転を維持したままクラッチをつなぐ。ホイルスピンをして雪を巻き上げながら発進した。灰色の雪が背中に飛び散る。クラッチレバーを微調整して少しずつ登る。何度も止まり、進み、を繰り返してようやく頂上にたどり着いた。バイクも僕も泥だらけだ。息が弾んでいる。清々しい。
達成感に浸りながら坂の頂上で一服してからまた家路についた。汐見台中学の信号を右に曲がり自宅のある団地に入る。団地の入口にも急坂があり、ここにも乗り捨てられた車がある。だが怖くはない。旧道の坂を制した僕にしてみればこの程度の坂はなんでもない。悠々と登り切り、家まであとちょっとのところで空き地が目に入った。長く駐車場として使われていたが、新棟が建つことになって整理されたばかりの土地だ。一面に雪が積もっていて足跡ひとつない。月明かりに照らされてキラキラしている。僕は引き寄せられるように空き地に入っていった。モンキーを駆り、広い空き地を縦横無尽に走り回った。粉雪を舞い上げながら車体を横滑りさせる。右に左に体を振ってわざと転ぶ。新雪に倒れるのでまったく痛くない。空き地をグルグル駆け巡ってまっさらな雪をひとしきり泥だらけにしたところで満足し、家に帰った。磯子駅から家までいつもなら10分、このときは2時間かかった。
この翌日から僕は吹っ切れたのか、なにかに目覚めたのか、人が変わったように美しい人物画を描くようになった、となれば格好がいい。でも現実はそうじゃなかった。翌日から風邪をひき、熱を出して2日寝込んだ。その次の日にまた人物画を描いたが、これまでと変わらず下手糞だった。
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